- 2021年03月29日 12:00
私が同性婚や選択的夫婦別姓のために戸籍制度を変えるべきではないと思う理由
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札幌の同性婚訴訟で国の姿勢を一部違憲とする判決が出たことや、選択的夫婦別氏の導入に向けた議連ができたこともあり、婚姻に関する法制を見直そうという動きが活発化している。
私個人としては、別に両親が異性かつ同氏でなければならないなどという神が定めた絶対不変の法則などはないのだから、同性カップルなり別氏カップルなりに関しても、法の下の平等の観点からそれ相応の社会的保護が与えられるべきと思っている。少なくとも同性であるとか別氏であるとかいった理由で、税制や社会保障面で異性同氏の婚姻家族との間で優遇措置に差を設ける合理的な理由はないであろう。件の札幌地裁の判決的でいうところの「婚姻によって生じる法的効果の一部〜を享受する法的手段の提供」である。総論としてこのこと自体に異論を唱える人はほとんどいないであろう。
改憲は必須?同性婚推進派同士で割れる意見
ただ問題は人によってその範囲が違うということで、例えば木村草太教授が同じ同性婚の推進派である音喜多駿参議院議員のことを「差別を前提として意見を発している」という趣旨で批判し、その発言に対して音喜多議員が激怒して抗議し、木村教授はエアリプともみなせるような謎のポエムツイートを連発し、同性婚推進団体が困惑するという推進派同士の争いが起きている。
具体的に同性婚において一番立場が分かれるのは「戸籍の扱いをどう考えるか?」という論点である。穏健派が「現行憲法は同性婚を意識して作られたものではないのだから、まずは現行制度で同性パートナーシップの権利を保護するような制度を作って、全面的な同性婚制度は憲法改正してから実現すればいい」と主張しているのに対して、急進派は「そのような主張は差別、偏見を前提としている。憲法は同性婚を禁じているわけではないのだから、すぐにでも実現すべき」と主張している。
先述の音喜多議員に限らず、SNSで「憲法を改正して疑義を無くしてから同性婚を実現した方が反動を生まないので好ましい」という趣旨の発信をした山尾志桜里議員も激しい批判にさらされている。最終目的は同じなのだからまずは最大公約数で全体が協力し合えばいいのにと第三者的には思うのだが、そういうわけにはいかないらしい。
私としては同性カップルでも別氏夫婦でもない第三者なので、「どちらかと言えば身の回りの当事者が喜ぶ制度を実現した方がいいとは思うけど、婚姻ってのは多かれ少なかれ1億2千万人全員が関わる制度だからあんまり無茶なことをしないでおくれよ」という程度しか思っていない。
ただこういうお気持ちの話ばかりしてもしょうがないわけで、この際最大の論点となっている戸籍制度が抱える問題について「日本の家族と戸籍」(下夷美幸、東京大学出版会)という本を読みながら考えてみることにした。予めに言っておくがこの本は良著である。戸籍制度に興味ある人は須く読んだ本がいい。
「戸籍=正しい家族の姿」?幻想が生まれた経緯

そもそも「戸籍とは何か?」というと「人の出生から死亡に至るまでの親族関係を登録公証するもの」である。親族関係のあり方自体は実体法である民法に規定されており、戸籍法はその内容を実現するための手段を定めた手続法である。つまり戸籍自体は法律的には、相続、社会保障などの事務手続きに使われるためのもので、それ以上の意味はないのだが、幸か不幸か現実社会において戸籍は「正しい家族の姿を定めたもの」としての規範的意味合いを持ってしまっており、この幻想が戸籍に関する問題を難しくしてしまっている。
同書に紹介される戸籍に関わる身の上相談の事例では「戸籍が汚れる」という表現がしばしば用いられているが、それは同姓男女の夫婦と嫡出子で構成される「婚姻家族」こそがあるべき家族の姿で、そこから逸れた内容は戸籍に記載されるべきではないと考える「戸籍=家族」の幻想の重さを物語っている。こういう幻想ができてしまったのにそれなりの経緯がある。
我が国において戸籍というものが国民全員に関わるものになったのは1871年に戸籍法が制定されて以来のことで意外に歴史は浅い。明治政府にとって戸籍法制定の根源的な目的は「国民」をつくりその国民を管理することにあり、現実に戸籍を作るにあたってはその生活実態にあわせて屋敷、すなわち「戸」、に番号をつけて、その家屋に暮らす人々をもれなく登録することとした。各戸には「戸主(こしゅ)」が置かれ、戸主以外の人々は戸主との俗柄において記載された。この「戸主」が現在の「戸籍筆頭者」の由来であるが、この時点では現在の戸籍筆頭者と同様戸主は名目的なもので特段実体的な意味はなかった。



