2013年に亡くなったミュージシャン・大瀧詠一のアルバム『A LONG VACATION』がリリースされたのはいまからちょうど40年前のきょう、1981年3月21日のことだった。この節目に合わせて、同アルバムがリマスター盤で再発されるとともに、大瀧が自身の主宰するナイアガラ・レーベルから発表した本人名義の全楽曲の配信が各サブスクリプションサービスで解禁される(※大瀧の名前の表記は大まかに分けて、歌手やミュージシャンとしては「大滝詠一」、プロデューサー、アレンジャー、作曲・作詞家としては「大瀧詠一」が用いられるが、この記事では後者で統一する)。
大瀧詠一 ©文藝春秋
いまでもCMで使われたりカバーされることも多い名曲「君は天然色」などを収録した『A LONG VACATION』は、そこで歌われた非日常的なリゾートのイメージがリリース当時、若者たちを魅了し、大瀧にとって最大のヒットアルバムとなった。いまではシティ・ポップの再評価にともない、その代表的な作品としてもよくとりあげられる。
しかし、大瀧はこのリリース以前、はっぴいえんど(彼が細野晴臣・松本隆・鈴木茂と組んだバンド)解散前の1972年に初のソロアルバム『大瀧詠一』を出してから10年近く、ヒットには恵まれない時期をすごした。それでも、そのなかにはその後評価されたり、いま聴くと興味深い作品も数多い。ここではそういったものをいくつか紹介してみたい。
大瀧が相次いで手がけたのは…「音頭物」
大瀧がナイアガラ・レーベルを立ち上げたのは1974年、エレック・レコードとの契約にともなってであった。以来、このレーベルのもと、自身のソロや若いアーティストのレコードをプロデュースし、リリースするようになる。
1976年にはレコード会社をエレックからコロムビアに移籍し、同年中に大瀧と伊藤銀次・山下達郎が曲を持ち寄った『NIAGARA TRIANGLE VOL.1』と、大瀧のソロアルバム『GO! GO! NIAGARA』をリリースした。前者では洗練された曲が並ぶなか、異色ともいえる大瀧の「ナイアガラ音頭」が収録され、ファンを驚かせた。
これは当時、大瀧がラジオ関東(現・ラジオ日本)で担当していた番組『ゴー!ゴー!ナイアガラ』にリスナーが投稿してきたアイデアから生まれた作品である。ボーカルには、大瀧とは旧知の仲であるロックシンガー・布谷文夫を据えた。お囃子を交えながら、こぶしを回してうなるような布谷の歌唱は、いま聴いてもインパクトがある。
以来、大瀧は音頭物をあいついで手がけるようになる。1978年には、その名も『LET'S ONDO AGAIN』というアルバムをリリースした。表題曲は、アメリカの歌手チャビー・チェッカーが60年代にヒットさせた「レッツ・ツイスト・アゲイン」を音頭にアレンジし、布谷が歌ったものだ。このほか、カントリー、ロックンロール、R&B、歌謡曲などさまざまなジャンルの音楽を素材とするコミックソングが収録されている。
シャネルズが歌った「ピンク・レディー」
『LET'S ONDO AGAIN』の収録曲のなかでも特筆したいのが「ピンク・レディー」である。これは同時期にヒット曲を連発して社会現象となっていた女性アイドルデュオのピンク・レディーへの応援歌で、歌手名にはモンスターなるグループがクレジットされているが、その正体はシャネルズ(のちのラッツ&スター)であった。
なお、『LET'S ONDO AGAIN』にはもう1曲、「河原の石川五右衛門」と題して、ピンク・レディーのヒット曲「渚のシンドバッド」の歌詞を天下の大泥棒・石川五右衛門に換骨奪胎したカバー曲が収録される予定だった。だが、ピンク・レディー側から許可が得られず、ライナーノーツに歌詞のみが掲載された。同曲が本来の形で収録されたのは18年もあと、1996年にこのアルバムがCDとして再発されたときであった。前出の「ピンク・レディー」と同じく、曲中にはピンク・レディーの各ナンバーから引用した一節がちりばめられ、凝っている。
このころ大瀧は、明治以降の日本の音楽が洋楽を採り入れながら独自の発展を遂げていった過程に関心を抱き、そのなかで歌謡曲にも注目していた。ピンク・レディーも格好の研究対象であったのだろう。
元来の「お笑い好き」からコミックソングに没頭
『LET'S ONDO AGAIN』ではこのほか、「ハンド・クラッピング音頭」「禁煙音頭」「呆阿津怒哀声音頭」といった音頭物が収録されている。原曲はそれぞれ、『NIAGARA MOON』収録の「ハンド・クラッピング・ルンバ」、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」、レイ・チャールズの「What'd I Say」である。このうち「ハンド・クラッピング音頭」にはゲストとして漫才コンビの星セント・ルイスが登場し、「田園調布に家が建つ」などの持ちギャグも披露している。彼らが漫才ブームで躍り出るのは、この1~2年ほどあとなので、大瀧には先見の明があったといえる。
大瀧はもともとお笑いが好きだった。彼がそのことを再確認したのは1973年、会ったばかりだった伊藤銀次に教えられて小林信彦の『日本の喜劇人』(晶文社、のち新潮文庫)を読んだときだという。とりわけ、60年代に人気を集めたクレージー・キャッツについて書かれた章には、幅広い音楽に取り組む勇気を与えられ、コミックソング制作に没頭することになった。ただ、そのおかげで《ミュージック・シーンの栄光の座からどんどん遠くなり、70年代後半はマッ暗な歴史となった》とも、のちに述懐している(※1)。
「暗黒時代」後もコミックソングを手がけた
“暗黒時代”を潜り抜けた大瀧は、80年代初めに『A LONG VACATION』をヒットさせると、元バンド仲間で作詞家となった松本隆の求めもあり、アイドルなどほかの歌手にも多くの楽曲を提供することになる。そのなかで、コミックソングもたびたび手がけている。
漫才ブームから生まれたバラエティ番組『オレたちひょうきん族』(1981年スタート)では人気コンビがばらばらに出演することになるが、そのうち漫才では相手にうなずくばかりの3人――ツービートのビートきよし、B&Bの島田洋八、紳助・竜介の松本竜介によるユニット「うなずきトリオ」のために、大瀧は「うなずきマーチ」という曲を提供し、スマッシュヒットとなる。また、同じく『ひょうきん族』でブレイクした山田邦子は、かつて『LET'S ONDO AGAIN』に収録された「アン・アン小唄」を、大瀧のプロデュースにより「邦子のアンアン小唄」というタイトルでカバーしている。