- 2021年03月15日 12:00
私が古文漢文はやっぱり必修にしておいてもいいと思う理由
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先日「報道リアリティーショー ABEMA Prime」で「古文漢文は役に立たないから必修から外して興味ある人だけがやればいいのではないか?」というテーマで議論をしたのだが、これがひろゆきさんの出た回ということもあってそれなりの反響があった。私はどちらかと言えば現状維持派で、主張の肝としては
- 役に立つとか立たないとかいうのは大人の事情を子供に押し付けるようなものなので、そういう基準で必修科目を選ぶのはあまりよろしくない
- むしろ子供が学びそのものを楽しいと感じるかどうかが重要で、子供が日常生活において興味を持ったことに関して掘り下げられるようにカリキュラムを考えるべき
- 日本文学というものに子供が触れる機会が相当にある以上、子供が現代語を超えて古文漢文に興味を持つ入口は相当にあるのだから、国語の一部として古文漢文を必修に残すことは納得感がある
という話をしたのだが、残念ながらあまり共感を得られずネットなどの反応を見る限り「いや興味を持った人がやればいい話で古文漢文は必修にする必要ない」「宇佐美が言ってることはゆとりのあるやつの発想で、ひろゆきの言う通り生活保護の受け方など社会を生き得る知恵を優先させたほうがいい」という意見が多数派だったように思う。
「今役に立たない」=「不要な学問」なのか

番組ではああいうスタンスをとったものの、私も「古文漢文なんて不要」という主張もわからなくもなく、実際そう思っていた時期もあるのだが、ただやっぱり個人的には「今役に立つ立たないで学問の要否を判断することは適切ではない」と感じてしまうので、せっかくの機会にもう少し掘り下げて考えてみてみたい。
「古文漢文が役に立たない学問」の代表としたら、おそらく(義務教育レベルでは)「数学」が「役に立つ学問」としての地位を確立しているようで、前述の議論でも数学を必修へ組み込むことに異論を唱えることはほとんどなかった。なので、ここから何か古文漢文を学ぶ意義について考えるヒントが得られるのではないかと、「世界史を変えた数学」という本を読みながら、数学の基礎である幾何学と代数学の歴史を簡単に調べてみた。
まず幾何と代数の意味についてだが、「幾何学」というのは「図形や空間の性質について研究する数学」で、他方の「代数学」というのは「数の代わりに文字を用いて方程式の解法を研究する学問」である。元々は両方の学問とも、例えば面積を正しく測って正しく課税するとか、川が氾濫したあとに公平に土地の境界線を引き直すとか、そういった実用からの要請で生まれたようだ。
数学にもあった「役に立たない」の壁
幾何学はこうした個別具体的な問題を、図形的に解決しようとするアプローチでギリシアにおいて発展した。これは至って直感的な発想であるためその発展は早く、ユークリッドが幾何学を体系立てて「幾何学原論」をまとめたのは紀元前300年ごろのことだった。他方で「数の性質」というものに着目して問題解決の手法を編み出そうとする代数学のアプローチはやや迂遠で、その発展は幾何学に比べればずっと遅かった。3世紀に活躍したアレクサンドリアのディオファントスは代数学の父とも呼ばれ、その墓碑には
「ディオファントスの人生は、6分の1が少年期、12分の1が青年期であり、その後に人生の7分の1が経って結婚し、結婚して5年で子供に恵まれた。ところがその子はディオファントスの一生の半分しか生きずに世を去った。自分の子を失って4年後にディオファントスも亡くなった。」
という一次方程式の問題を残している。仮にディオファントスの一生をXとすると
X=1/6 X+1/12 X+1/7 X+5+1/2 X+4
という方程式になるわけで、これを解くとディオファントスの人生は84歳ということになる。こんな墓碑を残すディオファントスが変人であったことは疑いようがないわけだが、彼のこの世界における貢献は「未知数の象徴化=いわゆる“x”の発明(当時はもちろんxという表記はない)」なのだが、ただ残念ながら彼の代数学的アプローチは未完で、実際にこうした方程式という形には辿り着けなかった。数の象徴化から方程式に至る道を阻んだのは「役に立たない」の壁だった。というのも、方程式というものを本格的に考えると「0」や「負の数」という概念を定義しなければいけなくなるが、正の有理数のみを対象とする図形を重視する観点からは「0」や「負の数」という概念は「馬鹿げている」と考えられたからだ。古代ギリシアーエジプト人にとって、数学は図形という実態ありきで、数は1から始まるものだった。



