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特集
3.11から、10年
2011年3月11日の東日本大震災から丸10年。未曾有の被害を生んだ震災から我々は何を学び、どんな10年間を過ごしてきたのでしょうか。復興の歩みを追いつつ、いま私たちにできることや、未来の防災について考えます。

「明日また津波が来てもびっくりしない」宮古市田老の防災教育と津波の町の覚悟

  • 2021年03月16日 08:06
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2011年3月11日の東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県宮古市。「スーパー堤防の町」田老の防潮堤の内側にあったご自宅を流され、仮設住宅で3年超を過ごした山崎義剛さん・奈美さんご夫妻にお話を伺いました。

山崎義剛さん・奈美さんご夫妻(ご自宅にて)

−−3.11はどちらにいらっしゃったんですか。

奈美さん:働いていた宮古市役所にいて、何階?

義剛さん:4階でちょうどパソコン関係の仕事をしていて、すごい揺れで「こいつはやべえな」と。2階にサーバー室があったので、そこに下りていって、コンセントを抜いたりとか、水が上がってきたらショートするから上の階に上げようとかというのをやって。

一通り作業が終わったので、高いところに逃げようとなって、市役所のベランダに上がって、海を見ていました。波が引いていき、黒い津波がザバーンと町を飲み込んでいって…。

津波の被害を受けた宮古市役所(2015年撮影 現在は移転)

奈美さん:私は2階で受付事務をしていたんです。ちょうどお客さんの対応が終わった辺りで、次のお客さんに行こうかなというところですごい揺れ始めて。地震は収まったけど、これは津波が来るなということで、「みんな、上に行け、行け」とお客さんを誘導しながら市役所の一番上の会議室に避難して、そこで一晩を過ごしました。

3.4mまで浸水した宮古市役所 ロビーには当時の時計がそのまま残されていた(2015年撮影)

抜き打ちで避難訓練 幼いころから叩き込まれる防災意識

−−田老での取材で、津波伝承の話を聞いたんですけれども、やはり、田老の皆さんは幼いころから津波が来たら逃げろと言われて育ったのでしょうか。

義剛さん:鉄板ですよ。当たり前。

奈美さん:田畑ヨシさんという津波の絵本を書いた方がいらして、その津波の紙芝居を子どもたちに年1回読んで聞かせます。

あと、保育所では定期的に避難訓練をやっているんです。お昼寝の時とか、ジリジリジリとベルが鳴ったら、着替えをして先生のところに集まるというのをいつもやっていたので、子どもたちも避難が身に付いているんじゃないかと。

田老総合事務所(現在は移転)に掲げられた津波防災都市宣言(2011年撮影)

義剛さん:普通の避難訓練は日時が決まっていて、アナウンスしてありますよね。でも、田老の保育所は毎月までじゃないけれども、本当にすごい頻度で一切誰にも言わずに、園長先生が突然ジリジリジリとベルを鳴らすんです。

−−抜き打ちの避難訓練をするんですね。

義剛さん:子どもたちは騒がずにさっと集まるし、先生たちも常時抜き打ちだから慣れているんですよ。

奈美さん:笑い話なんですけれども、うちの子どもたちが小さい時にすごいごねて、ケンカして泣いていた時に、大きめの地震があったんです。その時に「ああー」と泣きながらも、ちゃんと着替えをはじめて、逃げる準備をしたんですよね。保育所はすごいなと。こんなに身に付いているんだと思って。

義剛さん:田老はそんなもんだよ。

仮設住宅での暮らしは辛くなかった

−−ご自宅が被災されたということですが、仮設住宅での暮らしはいかがでしたか。

奈美さん:震災直後は親戚のところへ避難して、そのあと7月ぐらいまでは実家で世話になっていました。そのあとグリーンピア田老(現グリーンピア三陸みやこ)に仮設住宅ができたという話を聞いて、行けるんだったら行こうと。

義剛さん:我々は住む場所がある人たちだったから、空きがあったら入ろうかぐらいの話をしてたんです。役所勤めだから担当のやつにその話をしたら、「スペースはちゃんとあるからあとから変な時期に入るよりは、さっさと入ってください」みたいな感じで言われて仮設に入りました。

グリーンピア田老に建てられた仮設住宅(2012年撮影)

−−仮設住宅には何年いらっしゃったんですか。

奈美さん:3年くらいいたかな。2011年の7月に引っ越して、2014年の12月まで。

義剛さん:そのころには結構、仮設から出る人たちが多かった。田老の人たちってめっちゃ立派な家を建てるんですよ。津波はそのうち来っから、金は使わねえで質素倹約。アリンコのようにためて、津波に流されてわあっとなると、ばっと家を建てるという風習なんだけれども。

奈美さん:ぼちぼちいたね。家を建てて出ていくんです。あそこらへん、ここらへんと引っ越しの車が来て、人もだんだん減ったねというのがあった。

義剛さん:仮設で人が出ていくと残った人たちは焦るんです。「じゃあね、宮古のほうに家建てたから、遊びに来てね」と、ニコニコしながら出ていっちゃう。

奈美さん:残った人は「寂しいな」と。

義剛さん:昼間は仕事をしているから、ずっと家にいるわけでもなく、別に手狭でちょうど良かったもんね。

グリーンピア田老には約400棟の仮設住宅が建てられた。(2012年撮影)

奈美さん:私たちは仮設住宅が狭くて嫌だったとか、そういうのはなくて、割と楽しかったなと思っていたんです。お部屋もコンパクトで、子どもたちも集まっているし、「つらい生活ではなかったな。仮設も割と悪くはなかったよね」という話をして。

義剛さん:だから我々とすれば「まだいいじゃん」だったんだけれども、ばあちゃんはその時に「誰々さんも家建てたっけ、そろそろ建てようよ」みたいな。言っても全体でいけば、まだ7割くらい仮設にいたんですけど。

奈美さん:恐らくばあちゃんのコミュニティーの中に出ていった人たちが割といて、ちょっと焦るみたいなところがあったのかも。我々の年代のコミュニティーは仕事をしていて地元にいないから、いようがいまいがあんまり気にならなかったということじゃないかな。

災害時は命を最優先するスイッチを入れられる人が助かる

−−田老の皆さんにとって、あの防潮堤はどんな存在なのでしょうか。

義剛さん:普段は意識してないですからね。あって当たり前なんで、滑って遊ぶ場所だったり。

うちらの世代でも、親から地震が来たら本当に津波てんでんこでダッシュで逃げろと刷り込まれて来ました。とにかくダッシュで逃げろ。やべえ地震はダッシュで逃げろ、だけしか言われてないんです。

だから防潮堤が壊れようが壊れまいが関係ないんですよ。多分、俺らの世代は「ダッシュで逃げろ」が普通、様子を見るという考えはなかったと思います。

盛土でだいぶ低くなった田老の防潮堤。

奈美さん:ばあちゃんのお友達が、1回避難したんだけれども、家に何かを取りに戻って亡くなってしまったというのがあって。

−−いろいろな町で聞きました。眼鏡を取りに戻ったとか持病の薬を取りに戻ったとか…。

義剛さん:俺も学ぶ防災ガイドなんかでしゃべっているんだけれども、スイッチをちゃんと入れられる人が助かる。災害時にこいつは命が一番だとパチンとスイッチを入れられるかが大事。

家に上着を取りに帰りましたとか、冷静になれば「いや、そんなのどうでもいいじゃん」と思うことでも、取りに戻ってしまうというのはパニック状態なんでしょうね。戸締まり、通帳、寒いから服、理由はいろいろですが、家に戻ってしまう人はいました。

周りの人たちはぶん殴ってでも止めるぐらいのことをすれば良かったんだけども、止められなかったと後悔している人たちがいっぱいいるんです。

奈美さん:震災時、津波の心配がない高台の地域にいたのに、船を上げに漁港に行ってしまい、そのまま流されてしまって今も見つからないという人もいて。

義剛さん:防災活動をやっている人からすっと、田老であれだけ金かけて、毎年避難訓練もしてたのに、逃げなかった人がいるというのは、正直相当悔しいです。結局は人の話になっちゃうので。

震災で急激に進んだ過疎化

−−震災から10年、町の復興の様子をどのようにご覧になっていますか。

義剛さん:単純に昔の街並みが思い出せなくなりますよね。うちの実家は漁協の目の前で、川沿いに家があったぐらいは分かるんですけれども、田老の人と話していても「いや、思い出せなくなりましたよね」という話はするぐらいにはなってきたかな。

道の駅たろう内「たろう潮里ステーション」に設置された昔の街並みを再現した模型。誰の家がどこにあったのかひと目で分かるようになっている。

町づくり復興の地元の人たちの協議会みたいなのにも先輩から誘われて入ったんですけれど、これは特殊事例なんで一般論とは違うと思ってほしいんですが、「復興」というのはするわけがねえと俺らは思っているんです。

前と同じようになろうと話し合うけれども、そんなわけはねえよと。単純に町から人がいなくなったじゃないですか。

田老の町でいえば、手のひらの中心点のところ(海沿いの平地)はもう住めなくなって、それ以外の高台や山の端々に人が住んでいる。本当に指の先のほうにしか人がいない。そうすると人がいっぱい集まってお店がいっぱいあった前みたいにはならんでしょうと。

先輩と話した時に言ったのは、過疎化が震災で相当進んだんだろうなと。田老という地域から人がどんどんいなくなっているんですよ。

道の駅たろうに掲示されていた田老第一小学校の壁新聞。

奈美さん:子どもの数もすごく少なくなりました。うちは息子が学校に入る前の震災だったから、そのまま進学したけれども、若夫婦で赤ちゃんしかいなかったら、最初から田老にしがみついて生計を回復させようと思わない。宮古や盛岡にだって行けるんだから。

今の小学2年生は10人ぐらいしか学年にいないんです。学校に上がるタイミングで、こんなところよりは他のところに行ったほうがいいと選択している方が少なからずいるんでしょうね。生徒が少ないからPTAの役員がめちゃくちゃ回ってくるんですよ(笑)

ただ保育所から小、中まで1つのクラスだから、みんなすごい仲良しなの。男の子も女の子も仲良しでそれはいいなと思うんだけれども。もっと子どもが増えたらバリエーションも増えるのにと思って。

義剛さん:増えね。

奈美さん:しょうがないね。若い人たちがここに住むべと思うような魅力がない。仕事もないし。

人だらけの都心で震災が起きたらと思うとゾッとする

−−首都直下型地震、南海トラフと、次にいつ大きな地震が来ても不思議ではありません。東日本大震災から我々は何を学ぶべきでしょうか。

義剛さん:震災のあと、東京のほうからお客さんが来られて、震災の時の話を聞かせてくださいとよく言われました。震災翌日に田老に入っていろいろとサバイバルをやったので、いろんなことはしゃべれるんですけれども、すげえ悪いことをしたなと思うのが1個あって。

「大変だったでしょう」と皆さん声をかけてくれるんですが、「全然、楽勝でしたよ」と。

今のご時世、あちこちからヘルプが来るじゃないですか。初日はさすがにあれだけれども、2日目には被災していない店から食料を買い出しできたし、3日目には近隣の農家さんが備蓄しているお米でおにぎりを作ってくれた。

でももし、東京の方々が被災したとします。ライフラインが途切れる、電気が落ちる、水道が止まる、ガスも利かない、交通は遮断される。その時に都市に住んでいる方が避難するとなると、どこかに散るといっても周りにはごっそり人がいるんですよね。

その中で人間だから食べたい、出したいがあるから、人間たちがうじゃうじゃいる中であちこちで用を足すわけですよ。トイレどうします?

うちらは川があっからいいですよ、海があっからいいですよと。それを真面目に考えたら、都心に住んでいる人たちのほうがゾッとしますよという話をして。

今回は津波を食らって流された。でも田舎のならではのコミュニティーでおにぎりを運んでくれました。米を備蓄している農家さんが東京にどれだけいます? ヘリが飛んできて下りる場所はあります? と考えると、本当に今でも思いますけれども、東京とかで震災を食らったほうがゾッとします。想定できないです。それは多分、今でも答えが出ない。

都心に住んじゃったら逃げようがないだろうと思います。本気で考えるなら、せめて千葉ぐらいまで出ようかとか。

…という話をすると、ほら、こういう空気になって、ごめんなさいと(笑)

−−私は東京の下町出身なので、火事がとても心配です。木造家屋が密集していて道が狭く、消防車が入りにくいところも多い。

義剛さん:実際に震災の時に火事があちこちでありました。屋根に付いている太陽光発電パネル、屋根は被災しなかったから発電パネルとコードは生きていたんです。

そうすると昼間は発電しっぱなしで、意外とあちこちでバチッ!となるんです。そこにプロパンガスのタンクが流されてきたりして、誰もいないはずのがれきの真ん中でボン!と爆発が起きたり、火が出たりして。

さらに、津波で打ち上げられた山の際でそれが爆発して山火事になっても、消防車も水もないから、燃え尽きるのを待つしかなかったんですよね。

今でも覚えている小学校卒業の祝辞

−−今回の取材で、何度も大きな津波に襲われている田老の皆さんは、覚悟が違うなと感じました。

義剛さん:小学校の卒業式で、校長先生がお祝いの言葉を述べるじゃないですか、「6年生、卒業でおめでとう」みたいな。その時に校長先生が「君たちが大人になる前に必ず津波は来る」と言ったもんね。

奈美さん:本当に!?

義剛さん:俺の中では強烈に覚えている。この先生はお祝いの場所で何を言っているんだろうと。

奈美さん:なぜその時にと。

義剛さん:君たちが成人になるまであと10年、ずっと大きい津波が来ていないから、そろそろ来るから備えなさいというのを伝えたかったんだろうなと。今になれば分かるけど、それぐらいインパクトのある話をして、周りがざわつかなかったもんね。

奈美さん:そうなの!?

義剛さん:親たちも「うん、うん」とうなずいて聞いていて、まじかよと。それぐらい津波は来るもんだとみんな思ってる。母ちゃんはどう? 生きているうちにまだ津波は来っぺなと思う?

奈美さん:思う、思う。

義剛さん:我々とすれば、「いやいや、明日来たってびっくりしねえよ」と。さらに言うと、俺は次回来たらもっとうまくやろうと思っていますよ。




私は関東大震災で焼け野原になった東京下町に生まれ、震災のあった9月1日を防災の日として過ごしてきましたが、どれだけ本気で「首都直下型地震が来たらどういう行動を取ろう」と考えたことがあったのかと、深く反省させられる取材となりました。

どんな防災設備があろうとも、自分の命を守るのは自分であり、「スイッチを入れられる人が助かる」という言葉がとても印象的でした。抜き打ちの避難訓練で鍛えられている田老の保育所の子どもたちより、都会の人間のほうが防災意識は低いかも知れません。

我々メディアも、東日本大震災10周年を区切りとせず、継続して被災地の復興を伝えながら、防災に対する啓蒙活動を続けていかなければと強く感じました。

BLOGOSでも、引き続き被災地の報道を続けてまいります。

【取材協力:福田記子 取材・撮影:田野幸伸】

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