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3.11から10年。生島ヒロシ振り返る母の遺骨と妹を津波に奪われた日

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「そうですね、もう、あの日から10年になるんですよねぇ……。でも、妹が夢枕に立ったことは、残念ながらこの10年間、一度もないんです。だがら、きっと天国でおふくろたちと、幸せに暮らしてるんじゃないですかね。そう思うようにしているんです」

テレビやラジオの番組では常に元気いっぱい、決して笑みを絶やすことのない人が、少ししんみりとした表情を浮かべていた。

生島ヒロシさん(70)。元TBSの人気アナウンサーで、1989年のフリー転身後もタレントとして、司会者として第一線で活躍を続けている。

1998年に始まったのが、TBSラジオの朝の番組『生島ヒロシのおはよう定食』と『生島ヒロシのおはよう一直線』。ともにこの春、6千回目の放送を迎えるという人気の長寿番組で「朝一番、生島さんの声を聞き元気をもらう」というリスナーも少なくない。

そんな生島さんは2011年、あの東日本大震災で故郷・宮城県気仙沼市で暮らしていた妹を亡くした。10年を経た今日に至っても、妹の夫は見つからないままだ。

家族を亡くした悲しみを抱えながら、それでも生島さんはこの10年間、マイクに向かってしゃべることをやめなかった。機会あるごとにつらい思い出にも触れながら、あの日のことを発信し続けてきた。そこにあったのは、あの日、起きたことを決して風化させまいとする放送人としての矜持、そして、故郷・気仙沼への強い思いだった。

■火の手が上がる気仙沼を見て血の気が引いて、全身が震えた

2011年3月11日。この日、生島さんは宮城県仙台市のホテルで講演会に臨んでいた。

「会社の社長さんたち、100人ぐらいを前に、東北を元気にするためには何が大切か、みたいな話をちょうど、していたんです」

そして、午後2時46分。

「揺れに揺れました。縦、横、それに突き上げるような揺れ、経験したことのない地震でした。すぐ脇にあった鉄製の大きなオブジェが倒れてきて、僕の頭をかすめるようにして演台の左端に当たって。あと数センチ、ズレて直撃していたら、僕もダメだったと思う」

テーブルの下に身を隠した参加者を眺めながら、言った。

「皆さんはそのまま隠れていてください。私はしゃべり続けます、アナウンサーは死ぬまでマイクを離しません!」

精いっぱいの軽口に、テーブルの下からは笑い声も漏れた。まだ、わずかながら余裕があった。直後に講演会は中止になり、翌日、東京で仕事が入っていた生島さんは、すぐさま仙台駅に。しかし、鉄道は全線がストップ。飛行機もマヒしていた。「もう、タクシーしかない」と思ったが、それがなかなか捕まらない。マネージャーと雪が降り始めた町をさまようこと1時間半。ようやく、市内の自宅に帰る客を乗せたタクシーを捕まえ、頼み込んで乗せてもらった。そこから、タクシーを5台乗り継ぎ、東京を目指した。

「道中も余震が何度もあって、渡っている橋がものすごい揺れる。太平洋が見えると、運転手さんから『仙台空港は全滅らしい、津波で人がバタバタと死んでる』、そう教えられて空恐ろしくなりました」

郡山市内から乗ったタクシーにはカーナビがついていて、そこで発災後初めて、テレビのニュース映像を見ることができた。

「真っ先に映し出されたのが、文字どおり火の海と化した気仙沼でした。アナウンサーの方が『津波に襲われた気仙沼の港から、火の手が上がっています』と」

血の気がひいて、全身が震えた。“死んでもしゃべり続ける”はずの彼が、言葉を失っていた。

「気仙沼には親戚も友人もたくさんいます。なにより、妹夫婦が気仙沼で暮らしていたからです」

■地震の直後、妹から「明日は行けそうにない」。その後連絡は途絶えた

じつは生島さんの妹・亀井喜代美さん(当時57)と夫は、まさに11日の午後、上京する予定だった。

「前月に、妹と暮らしていた母が他界して。僕が東京にお墓を建てたので、妹たちが母の遺骨を持ってきて、納骨式というか四十九日の法要を行うことになっていた。11日は東京のめいの家に泊まって『お兄ちゃんのところには12日の朝に行くね』と言ってたんです」

仙台をたって、およそ15時間。朝の7時にようやく、東京の自宅に帰り着くことができた。それでも、落ち着いてなどいられない。

「地震の直後、妹の自宅からわが家に電話があったそうなんです。『明日は行けそうにないけど、改めてお邪魔します』って。電話を受けた妻は、津波警報が出たのを知っていましたから『なに言ってるの、喜代美ちゃん。そんなこといいから、早く逃げて』と伝えたそうなんですが……」

その後、喜代美さんの電話はまったくつながらなくなった。生島さんはあちこちに連絡を入れ、妹夫妻の安否を尋ねた。「どこそこの避難所で見かけた」「いや、来ていない」「一度来たけど帰ったようだ」……情報は錯綜していた。

「不安でしたけど、ポジティブシンキングの僕ですから、『絶対、大丈夫だ、喜代美は生きてる』ってずっと自分に言い聞かせ続けました。でも、タクシーの車内で気仙沼の映像を見た瞬間、すごく嫌な予感がしたのも確かなんです」

3日後の14日早朝。生島さんはパーソナリティを務めるラジオ番組の生放送に。気持ちを奮い立たせて、マイクの前に座った。

「自分の体験を踏まえながら地震のことをお伝えしたんですが、妹が見つかっていないということも話していくうちに、お通夜みたいな放送になってしまって……」

すると、全国のリスナーからたくさんの、温かなメールが届く。

「『つらいと思いますが、乗り越えてください』とか、『心中お察しします』という趣旨のメッセージをたくさんいただきました。なかには『生島さんから元気をもらえるから、私は生きていけます』って書いてくださった人もいて。放送中、それを読み上げてたら涙があふれてきちゃって。自分で『こんなことじゃダメだ、切り替えよう』って思いましたね」

芸能界の友人たちも、生島さんを心配していた。

「あれは震災から5日後ぐらいですね、アッコ(和田アキ子)さんが電話をくれて。いわゆる“黄金の72時間”、それを過ぎると助かる確率がガクンと下がるといわれる時間を過ぎてしまってましたから。『生島、つらいのはわかる、だけどこれはもう、腹をくくらないとダメだと思うよ』って。僕が現実を受け止められるように、背中を押してくれたんだと思います」

生島さんは、次々に入ってくる被災地の新たな情報を整理し、リスナーに届けることに、ただひたすらに没頭した。そうすることが、不安と悲しみに押し潰されない、唯一の方法だった。

■親しい人の死を悲しむ日を卒業し、前を向くことがいちばんの供養

生島さんが故郷・気仙沼を訪れることができたのは、震災から1カ月ほどがたってのことだった。漁業が盛んで海の恩恵を受けて発展してきた町は、同じ海からの脅威の前に壊滅していた。

「町並みが、変わり果ててしまってました。僕のなかの気仙沼は、空も海も真っ青、そんなイメージが強いんです。でも、その日は曇り空で、海もどす黒く沈んだ色をしていて。町じゅうがぬかるんでいて、それに臭いが強烈でした。打ち上げられた魚が腐敗した臭いと、油の臭いが混じったような……、あの臭いはこの先も、一生忘れられないと思います」

生島さんが故郷の惨状を初めて目の当たりにした4月初旬。そこには震災から1カ月ぶりに、ようやく帰宅が許された人たちがいた。気仙沼市役所に勤めていた、生島さん旧知の2人。小中高と同級生だった廣野純朗さん(70)と、いとこの佐藤健一さん(67)だ。

彼らが1カ月も帰宅できなかったのは重責を担っていたから。廣野さんは会計課、佐藤さんは危機管理課、それぞれの責任者だった。

震災後、行方不明の妹夫妻の情報を得るため、生島さんが頼ったのが佐藤さんだった。

「警察から入る亡くなった人、行方不明者の名簿、それに、避難所に寝泊まりしている人たちの名簿を夜中、手が空いたところでくまなくチェックしたんですが……。当時、パソコンも通信機器も使えないなかで、本当に残念ですが喜代美ちゃんの情報を見つけることはできませんでした」

一方、混乱のただ中にあった市役所で、お金の管理を任されていたのが廣野さんだ。被災し稼働できなくなった金融機関の再開にも奔走した。また、支援金や義援金の窓口も。後日、生島さんが東京で集めた義援金の管理も任された。

「私は会計課にいたので、生島も『あいつなら金のことも大丈夫だろう』と思ったんでしょうね」

2人には、震災直後に脳裏に刻まれた、生々しい記憶がある。廣野さんのそれは、ある音だった。

「潰れ、水につかった車のクラクションが、あちこちで突然鳴るんです。市役所が静まり返った夜中になると、よく聞こえてきて。まるで断末魔の叫びのような、それは物悲しい響きでした。あの音はいまも耳にこびりついてます」

佐藤さんは、ある光景を目にして、悔しさにかられたという。

「雪がやんだ後の、当日の夜。湾のほうにはまだ真っ赤な炎が見えるんです。でも、空を見上げると雲ひとつない夜空に星がさんぜんと輝いていて。ひどい皮肉ですよ。満天の星の下に広がっていたのは地獄絵図ですから。神様が本当にいたら、なぜこんなひどいことをするのかと、恨めしく思いました」

一方、生島さんは東京に戻って以降、仕事をまっとうすることに、より傾注していった。

「僕の役割ってなんだろう、そういつも考えてました。もう長いこと行方不明のままの肉親がいる、その悲しみを抱えながら、同じ境遇の人の痛みもわかりながら、伝えるべきことをきちっと伝える、それが放送人としての僕の務めだと、そう思うようにしていました」

それまで以上に仕事にまい進した。そして、震災から3カ月が過ぎたある日、新聞記事に目が留まった。

「それを読んで、僕はとても納得できた。その記事では、東北地方のお坊さんが『卒哭忌』という言葉を解説していたんです。卒哭忌とは百箇日法要のことで、親しい人を亡くし嘆き悲しむ日々からその日を境に卒業して、前を向き生きていきましょうということ。それが故人のいちばんの供養になる、とも書かれてました。

つらいし、決して忘れることなどできません。でも、亡くなった人のぶんまで、2倍も3倍も生きることを謳歌する、それが遺った者のすべきことと僕は思うようになりました」

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