私の妻は、「使徒の顔と名前が全員一致するぐらい」のエヴァンゲリオンファンなので、連れられて初日に見てきました。シン・エヴァンゲリオン劇場版。
私はまあ、「世代(40代前半)的に一応知っているぐらいのファン」だったんですが、そういう「ライトなファン」の気持ちもゴッソリ掴んで「1995年から延々続いてきた作品をちゃんと終わらせてくれたなあ」という完成度だったと思います。
「Q」以降の話が突然展開すぎてついていけず(多くのライトなファンはそういう感覚があると思います)、個人的には正直言ってあまり期待していなかったんですが、なんか想像の百倍ぐらい良くて、後半なんか感動してウルウルと泣いてしまいました。
もちろん、私のような「ライトなファン」はそれでいいんですが、妻のような結構ヘビーなファンは複雑な思いもあったようで、最近彼女は体調がすぐれないことも多くて心配しつつ一緒に行ったんですけど、終わった後は興奮冷めやらずという感じで
「いやああいう終わり方をするのなら旧劇でも良かったのでは?しかしアスカの最後がこうなったことを考えると・・・そしてカヲルくんが・・・」
とか延々とブツブツ言っていたんですが、一晩たってゆっくり寝てから聞いてみると、
「全体的にとても良かったという結論に達した」
という話でした。
SNSでの反応を見ていても、全体的に
「エヴァンゲリオンシリーズの事を深く知っているファン」
でも、
「世代的にもちろん大体のあらすじは知っているが、人類補完計画とは何なのか?を三百字以内で説明しなさいと言われても困る」
というファンでも、十分に
「よくぞちゃんと終わらせてくれた!」
という反応であることが多いようです。
なにしろ1995年のTVシリーズから26年間延々と宙ぶらりんのまま引っ張ってきた作品が「完結」するっていうだけでも、十分なカタルシスがあり、そしてそれに「ちゃんと応えてくれた」作品と言えると思います。
「ディープなファン」は当然行くでしょうが、私のように「世代的に一応知っている」というファンでも、今回はちゃんと「人生の区切り」として劇場版を見に行っておいても損はないと思います。
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1●「わけがわからない話」に全力になれる凄さってあるよね。
なんか、今回の映画を見ていて思ったのは
「褒め言葉」としての「わけがわからない話」
ってことなんですよね。
確かに私は凄くディープなファンではないけれども、
碇ゲンドウが「何かわからんがハタ迷惑な巨大な野望」を遂行しようとしていて、ミサトさんたちはそれを止めようとしているんだな・・・
ぐらいの事は理解しているわけですよね。で、どっちの派閥にも仲間なのか、それとも仲間のフリをしつつ独自の目的で動いているだけなのかわからない存在がチラホラいる。
ただ、その「先」となると、初日鑑賞するぐらいの日本人でも、6割、ひょっとしたら8割ぐらいのファンは「正直よくわからん」と思って見ていると思うんですよ。
エヴァって何?「●●インパクトって?」ゼーレのシナリオって?死海文書?
・・・あらゆることが良くわからない。
一応「漫画版」がそういう意味では一番「わけわかる話」にまとまっているように思うんですが、じゃあ新劇場版とかと比べてどの設定はこっちの世界でも生きているのか、この設定は漫画版だけの話なのか・・・とか考え始めると果てしなくよくわからなくなってくる。
さらには、「時間を何度も繰り返しながら最適解を探している旅人」的な人物がいるんじゃないか?的な設定もチラホラ挟まれているんで、さらにわけがわからなくなってくる。
そのうちちゃんとこういうのを細部まで読み解いてくれる人が日本のネットに現れると思うので、それを楽しみにしたいと思っているんですが、この記事で言いたいことは、
8割がたのファンはよくわからないなりに楽しんで見ている
ということの凄さ・・・みたいなことなんですよね。
なぜかというと、今の人類社会は「わけがわかる話」ばかりで溢れかえっていて、「わけがわからない話」にちゃんとお金をかけることがどんどん難しくなっていっているからです。
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2●「わけがわからない」話に全力になってこそ見えてくるものがある
最近の世界のエンタメビジネスは・・・というかこれはほとんどあらゆるビジネスが・・・ということですが、投資段階で徹底的に理屈で精査されがちですよね。
キャスティングにしろ、プロットの細部にしろ、ある種の「プロ」が集まって寄ってたかって叩いて、
「マトモなモノ」
に仕上げていきがちです。
「ある種の狂気」を描くにしても、それは「こういう風に狙いすまして”狂気”を表現しましょう」みたいになりがちで。
もちろんそういう「枠」をはめることで新しい世界が見えてくることが”時にはある”事も否定しませんし、「政治的正しさ」が”必ず”作品の魅力を駄目にするとまで言いたいわけではありません。
が、たまにこの「シン・エヴァンゲリオン劇場版」みたいな
「直球的なわけわからなさをそのまま凄いお金と労力を投入して具現化した」
みたいなモノを見ると、その「現代人類社会におけるバケモノ性」というか、「よくぞこんなの作ったな!」という感動を感じざるを得ません。
制作費が何十億円かかったかわかりませんが、噂によると前作の収入だけじゃなくパチンコエヴァンゲリオンなどを含むいろいろな版権収入なども動員して、まさに「エヴァンゲリオンという作品を愛していた無数のファンたちの総意」が、”ヤシマ作戦”的に資本という形のエネルギーとして一点集中されることで、錚々たるアニメスタジオの名前がタイトルロールに並ぶ贅沢作品として結実したところがある。
普通は「こんなにお金をかける」なら、「もっと理屈で精査された作品」になるはず・・・なのが現代社会のルールなんですが、それを堂々と「赤信号みんなで渡れば怖くない」的に突き抜けてしまっている。
それが、
・20世紀なかばの芸術派フランス映画みたいな作り方の「個人(あるいは多くのファンたちの集合的無意識)の想像力だけの暴走」
に対して、
・21世紀の資本主義社会ならではのお金のかけ方と労力とテクノロジーの溢れるような使用
で形にする・・・という「奇跡」が起きているのだ・・・と私は思いました。
とにかく後半ぐらいから「なんかとにかく凄い!カッコいい!」みたいなシーンが延々と続いていて、
「面白かったんだからそれでいいじゃん」
を清々しいレベルで突っ走っているのが、最近こういうの見てないなあ、と思うポイントだったように思っています。
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3●東京という街がもたらす可能性
こういう「理屈じゃない地続きのもの」をそのまま大きな市場に展開できるナマのパワーという面で、東京という街を中心に動いている日本のカルチャーの可能性ってやっぱりあるな、と私は感じています。
最近、このFindersでの連載とは別の媒体で、私が経営コンサルタントとして触れる「東京という街での商売」の特異性について書いた記事が結構好評だったことがあったのですが・・・
私のクライアントの中でも変わり種な、「一人アパレル事業」やら、「Jポップの作曲家」のしごとを見ていると、「こんなやり方でも成立するのか!」と思う事が多いです。
普通ならもっと、「わけがわかる理屈」でガチガチで武装してやるのが今の時代の「ビジネス」であるはずなのに、そうじゃなくて
「自分はこういう服が作りたくて、着て喜んでくれるお客さんがいると嬉しい」
というレベルの「リアルで純粋にパーソナルな感情」をそのまま表出することで、それでも「東京という街」の規模のパワーを利用して「なんとかなっている」例が多くある。
「理屈」ではない「推し・推される」的な関係の輪が直接的に重層的に積み重なることで、「わけがわからない領域をそのまま表出する」ことを守っている。
「わけがわかる理屈」で世界を埋め尽くしてしまおうとする一種のファシズム的エネルギーが世界を席巻している時代に、そしてその「わけがわかる理屈」だけで埋め尽くされてしまう世界への忌避感が、社会全体の巨大な分断を生み出してしまう大問題に直面している現状においては。
この「わけがわからないものを、理屈を介在させない直接的な感情の共有によって具現化」していく、東京を中心としてネットを通じて日本中、世界中の日本語話者を繋ぐことで形成されていく共創のメカニズムこそが、言ってみれば「人類補完計画」的ななにかとして提示していくべきものなのだと私は考えています。