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特集
3.11から、10年
2011年3月11日の東日本大震災から丸10年。未曾有の被害を生んだ震災から我々は何を学び、どんな10年間を過ごしてきたのでしょうか。復興の歩みを追いつつ、いま私たちにできることや、未来の防災について考えます。

津波で母親を失った女子高生は記者に 傷つく痛みが分かるから「報道で誰かを救ってみたい」

  • 2021年03月11日 10:00
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まだ午後3時を過ぎたばかりなのに、あたりが真っ暗だったのを覚えている。いつもは干上がっている川が水でいっぱいになった次の瞬間、乗っていた軽自動車が津波に押し流されていった――。

福島県のテレビ局で記者をしている阿部真奈さん(26)は、10年前のあの時の記憶を忘れることはない。生まれ育った宮城県女川町を襲った津波は、母親、家族を奪い去っていった。

震災の後、地元に小さな災害放送局が生まれた。高校生パーソナリティーとして、同じ被災者に生活情報や避難所での話題を提供する中で、誰かに何かを伝える意味を考えるようになった。取材を受ける立場として、マスコミに苦しんだ経験もあった。

記者になってもうすぐ4年が過ぎる。被災した体験を大切にして、報道を通じて人の命を救うことができる記者が目標だ。それでも、災害や事件・事故の取材のたびに、「自分がしていることは正しいのか」と考えさせられてしまう。伝えることの意義の一方で、取材される側の苦しみも分かるから。

福島県のテレビ局・テレビユー福島で記者として働く阿部真奈さん

震災で子どもを失った男性の取材 境遇が共通していた

東日本大震災から丸10年を迎えようとしていた今月5日、福島の民放・テレビユー福島の夕方のニュースで、ある特集が放送された。タイトルは「10年に思う“命”と“教訓”」。

登場するのは福島県沿岸部の南相馬市に暮らす男性だ。大震災の津波で、両親と長女(当時8歳)、長男(当時3歳)を失った。男性は生き残ってしまったという自責の念を抱えながら、行方不明のままの長男を必死で探し続けてきた。

そんな中、震災の半年後に新たな命が誕生する。次女と新たな生活を歩み始めながら、失った2人の子と両親への思いを忘れずに、命を守る尊さを呼びかける。そんな男性の姿を特集は伝えた。

真奈さんが取材から編集までを任された。男性と同じで、震災によって大切なものを失った経験があったからだった。

取材を命じられた2020年末、上司に進言した。

「きちんとお会いして打ち合わせをしたい。信頼してもらわないと取材は難しい」

通常の特集記事であれば、取材は2回までで済ませて、打ち合わせも電話で行う。限られた人員でやりくりするには仕方がない。

でも、初対面の記者から震災の記憶を尋ねられる。男性の立場を考えてみたら、それはあまりにも不誠実だ。真奈さんはそう考えた。

9歳の次女にカメラを向けた 胸が苦しくなった

21年1月。初めて顔を会わせる打ち合わせの日、当時勤めていた郡山市から南相馬市まで2時間近く車を走らせた。

女川で被災した境遇を打ち明けると、男性も子どもを失った辛さや、命について考えたことを淡々と語ってくれた。お互いに理解し合えることがたくさんあった。初の打ち合わせは6時間近くにも及んだ。

「次はカメラを入れてもいいですか」。そう尋ねると、男性は黙ってうなずいてくれた。

その後、放送まで男性のもとを訪れたのは計4回にのぼる。男性の人生を丁寧に聞き取りたかったし、放送するには十分な取材が不可欠だった。

震災後に生まれ、9歳になった次女にも質問した。

「亡くなったお兄ちゃん、お姉ちゃんのことを聞かせてくれる?」。

あまりにも残酷なことを尋ねていると自分でも分かった。質問する身でありながら胸が締め付けられる思いだったのは、自らが被災者で震災の遺族だからだった。

それでも、男性は次女にインタビューする様子を静かに見守ってくれた。

漁業が盛んな宮城県女川町

あの日に家族を奪われた「絶対に津波は来ない」はずだった

女川町は仙台市から北東に約53キロ。牡鹿半島の付け根に位置し、漁港へのサンマの水揚げ量は全国でもトップクラスだ。

2011年3月11日午後2時46分、震度6弱の強い揺れが襲った。

立っていることも難しいほどの強い余震が続き、真奈さんは外出先から慌てて自宅に戻った。自宅は海から2キロほど離れていた。「ここは絶対に津波は大丈夫」。そう教えられてきた。

3月なのにすごく寒い日だった。母親の由貴さん(当時40歳)と、義姉、生後間もないめいの4人で、軽自動車の中で暖を取っていた。

最初の強い揺れから30分ほど経った頃、絶対に来ないはずだった津波が軽自動車を飲み込んだ。母親とめい、祖父の行方が分からなくなった。

波が引いた街にはガレキが残り、自宅があった場所には海沿いの工場の建屋が流れ着いていた。

自宅近くの山では、地域の人が集まって焚き火をしていた。みんな、大切な誰かを失っていた。その夜、海沿いの女川には珍しく雪が降った。

東日本大震災から1年後の女川町=Getty Images

津波の直前に母親と言い争い ずっと心残りに

避難所で再会した祖母は、何も聞かずにただ抱き寄せて、「よかった」とだけ繰り返した。母親たちが波に流されたことを悟っていたのかもしれない。

2人で避難所生活を始めた。まだ、母親だけ見つからない。夜が明けて午前5時になると、ガレキだらけの女川の街に歩いて向かって、遺体を探すのが真奈さんの日課になった。

心残りがあった。

高校2年生になる直前で、進路の話題になるといつも口論になった。大学進学を望む母親に対し、真奈さんはケーキ屋さんの夢を叶えるために仙台の専門学校に行きたかった。

3月11日の午前中、母親と買い物に出掛けた。案の定、進路をめぐって言い争いをした。ケンカしたまま離れ離れになってしまっていた。

災害ラジオ局のパーソナリティーに “伝える意味“を考えた

あてもなく母親を探し求めてガレキの中を歩く日々。スニーカーはボロボロになり、変わり切った街並みを目にして心も疲れ切っていた。震災から1ヶ月が過ぎると、避難所の外に出るのも億劫になってしまっていた。

中学校の先輩の思いがけない一言がきっかけだ。

「ラジオ局ができた。ひまなら遊びにおいで」。

言われるままついて行くと、被災した街にあって放送局はどこか光り輝いて見えた。

臨時災害放送局「女川さいがいFM」――。

地元の人たちの中に、東京からボランティアで駆けつけた放送関係者も加わり、せわしないながらも充実感に満ちていた。情報は、炊き出しや入浴、給水に関する情報が中心。被災者に必要不可欠な放送局だった。

高校生パーソナリティーを務めていた女川さいがいエフエム。阿部さんは前列左から2人目=阿部さん提供

真奈さんが初めて出演したのは5月9日。偶然にも「母の日」だった。

「16年間育ててくれてありがとう」。

遺体が見つからないままの母親に呼びかけるように口にした。聴いた人がどう受け止めるのか、すごく不安だった。でも、避難所に戻ると、みんなが優しい言葉をかけてくれた。

高校生パーソナリティーとして放送に携わるようになり、自分が女川の役に立っている実感を得られた。

時間が経って避難所から仮設住宅に移る人が増えると、求められる情報も変化していく。「生活の情報だけじゃなくて、みんな癒やしが必要なのかも」。番組の編集会議では積極的に意見した。

誰かに何かを伝えること。その意味を考える時間がすごく貴重で楽しく思えた。

あるディレクターとの出会いがきっかけに

阿部さんは、パーソナリティーとして情報を伝える側でありながら、被災した記憶、そして時々の感情を聞かれる立場でもあった。

女川にも仙台や東京、そして全国各地の新聞社やテレビ局から記者が派遣されていた。

真奈さんはもともと、弱音を吐いたりくよくよしたりするのは好きではない。記憶を振り返ることは痛みを伴ったが、記者に問いかけられたら出来る限りしっかりと答えるようにしていた。

取材を受けることは、閉じ込めていた被災の記憶や感情を誰かと共有する作業でもあった。

被災した女川の街を歩く記者も、心がすり減っている様子に見えた。どこか分かり合えるところがあるように感じた。「境遇を話せば話すだけ、気持ちが楽になった」。

「女川がどうなっているのかなって気になって」。あるNHKのディレクターは女川に滞在している理由をそうぶっきらぼうに説明した。型にはまった建前を口にせず、あっけらかんと語る様子が心地よく思えた。

男性は被災者の日常にどんどん溶け込んでいった。真奈さんも男性のカメラに対しては身構えることはなくなっていた。

震災の3ヶ月後、放送局が被災者の拠り所になっている姿をドキュメンタリー番組で伝えた。いろんな境遇の人が集まる放送局は、被災した街にあっても魅力的だった。そして、テレビ画面の中に映る自分もどこかまばゆく感じた。

2011年3月22日(左)と今年2月12日の宮城県女川町。新しい駅(中央)前には商店街や公園ができ、高台(右上)には災害公営住宅などが整備された(共同通信社ヘリから)

遺体が見つかった母親 将来の夢を誓った

メディア、マスコミ、報道…。震災の後、縁もゆかりもなかったそんな言葉が身近になっていった。

毎週土曜日の生放送では、同じ高校生と1時間半、女川や今後の街並みについて話しあった。

リスナーの被災者は「ラジオ聴いたよ」「今回も楽しかった」と褒めてくれる。インターネット配信を通じて、全国から応援のメッセージも寄せられた。

そうして、震災から1年が過ぎようとしていた頃だった。12年2月。地元の警察署から母親とみられる遺体が見つかったと連絡があった。母親が通っていた歯科医院のカルテを提出すると、母親と判明した。

後日、遺骨の受け渡し場所として使われていた陸上競技場の選手控え室を訪ねた。まだ、亡くなったことを認めたくない気持ちがあり、祖母と兄に中に入ってもらった。

兄が小さな骨壺を抱えているのが見えた。覚悟はしていたが、ショックだった。

気がつけば、震災から一度も泣いていなかった。涙を流しながら、「将来は人に何かを伝える仕事に就きたいな」。母親にそう誓った。

大学に進学することを決めた。不思議にも、それは母親が望んだ道でもあった。

台本ありきの取材も 直面したメディアの怠慢

寝る間も惜しんで勉強に励みながらも、番組への出演は欠かさなかった。それは、受験勉強を続け、将来の夢を叶えるモチベーションになった。

高校生パーソナリティーとして存在感を示せば示すほど、マスコミの取材は増えていった。父親は10年以上前に病死し、さらに、津波で家族はバラバラになるーー。そんな自身の境遇に対してマスコミが強い関心を示す構図も理解できるようになった。

「次は家の跡地に行きましょう」
「じゃあ、ここを見つめてください」
「はい。ここで質問です」

ある放送局の取材では、矢継ぎ早に指示され続けた。

担当の記者は、地方に勤めているまだ入社2年目の若手。自分自身を紹介する過去の新聞記事を読み込んで、入念な台本を作ってきた様子だった。

「期待していることだけを答えてくれればいい」。そんな意図すら感じられた。取材が終わると、記者は放送日時すら告げることなく去っていった。

後日、放送局のホームページをのぞくと「私が見た阿部真奈」といった趣旨の紹介文とともに記者の写真を見つけた。必要最低限の取材にもかかわらず、あたかも自分の全てを知ったかのように描かれていた。

記事きっかけにネットで誹謗中傷 メディアの怖さ

猛勉強を重ねて、AO入試で慶應大に合格した。入学する直前、新聞社の取材を受けた。

震災をきっかけに学ぶ意義を知ったこと。そして、亡くなった母親に喜んで欲しかった思い。そんなことをありのままに答えた。

一緒に暮らす家族は祖母のみ。とても大学に進む余裕はなかったため、学費の免除や生活費の支援制度を活用することも正直に答えた。

記事を知った女川の人たちは激励の言葉をかけてくれた。

「無料で住めるとこを用意します」。進学する大学近くの人からはそんな支援の言葉もあった。

※写真はイメージです

でも、インターネット上では違う受け止め方をする人もいた。

「被災者だから大学に行けるんだ」
「他にも困っている人はたくさんいる」

掲示板には罵詈雑言が並び、TwitterやFacebookのアカウントも晒された。いわゆる“炎上”状態だった。

大学に入ってからも、気が気でならなかった。キャンパスの教室に入っては周囲をキョロキョロとした。「あの子が書き込んでいたらどうしよう」。入学当初はそんな被害妄想にも駆り立てられた。

18歳にしてメディアの本当の怖さを思い知った。

でも、メディアを嫌いになることはなかった。

「震災で傷ついて、その上、メディアに傷つく子はもっと他にもいるはず。自分は誰かを救う記者になればいいだけ」

長期休みには女川に帰って放送局の仕事に携わった。そのたびに、メディアを志した初心を思い返した。

「息遣いやにおい、そして温度感。映像ならそれらを最大限、忠実に伝えられる」。そう思ってテレビ局を志した。

就職活動では、東京のキー局に加え、宮城県の民放4局も不合格となった。「阿部さんは震災のイメージが強すぎるから、報道以外に配属しにくい」。そんな指摘も耳に入った。背水の陣で福島県の民放を受けることにした。

テレビユー福島の最終面接はとにかくアットホームな雰囲気だった。新幹線で東京駅に着いた時、内定を伝える電話がなった。

年老いた祖母のため、地元の地方銀行の内定は得ていた。東京駅ですぐさま、祖母に報告した。「私のことは心配しないで、やりたいことをやりなさい」。祖母はそう言ってくれた。

台風19号の影響で浸水した福島県郡山市の住宅街=2020年10月13日午前10時38分(共同通信社ヘリから)

これがやりたかった仕事? 台風取材で感じた無力感

記者になって2年半が過ぎていた。19年10月。108人の死者・行方不明者を出した「令和元年東日本台風」が福島を襲う。

台風で郡山市内の川が増水し、母親と小学生2人の子どもが乗った車が飲み込まれたとの一報が入った。3人はその後、遺体になって発見される。

上司からの指示は、子ども2人の顔写真を入手することと、親子の人となりが分かるインタビューを撮影してくること。すぐさま、親子が暮らしていた小さな村に向かった。

住宅1軒1軒のインターフォンを鳴らしては、親子について何か知っていることがないかを尋ねていった。

その中で、台風が来たさいの親子の様子を知る人に出会えた。ようやく得た成果に、思わず気持ちがたかぶっているのを感じてしまった。

その時だった。「何を撮ってるんだ!」。別の男性に強い口調で迫られた。

記者になってから、怒鳴られることには慣れていた。しかし、自分の取材で誰かを傷つけているのではないか。そう思い始めて、途端に虚しくなった。

「そもそも親子が命を落とさないような報道が自分の使命ではなかったのか」。悔しさは増した。

寄り添う記者になるため 決めたこと

亡くなった人の顔写真を紹介し、その人となりを伝える。それにどんな意味があるのだろうかーー。

そのことは、ずっと考えてきたつもりだった。

「亡くなった人がAさん、Bさんと記号のようになって伝わってしまうのは辛い。命を落とす前の笑顔や希望を伝えたい――」。

東日本大震災で被災して家族を失った立場として、本心からそう思えた。それが記者の仕事であり、事件の再発を防いで災害の犠牲になる人を減らすことにつながる。そんな信念があるから今回も現場に向かった。

でも、取材の現場に立つと、どこか割り切れない思いが芽生えることもある。「自分はメディアの理屈だけ振り回して、結局は人を傷つけているんじゃないか」。

夢を与えてくれたメディアに傷つけられもした。気づかないうちに、自分も同じように人を傷つける立場になってしまっているのかもしれない。

記者になるということは、そんな悩みと向き合う日々でもあった。

真奈さんには、一つ楽しみにしていることがある。今回取材した南相馬市の男性との約束だ。

5月になったら、男性が自宅前で育てた菜の花畑で再会して、昨年11月に結婚した夫との結婚写真を撮らせてもらうことにしている。

取材した人と、仕事の関係を超えてずっとつながっていたい。寄り添うことができる記者になるために。それが真奈さんの願いだ。

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