- 2021年03月10日 08:43
【福島第1原発事故から10年】飯舘村:「地域喪失」からの開墾(下) - 寺島英弥
2/2啓一さんは避難中も義人さんと共に比曽に通い、環境省の除染作業が始まる以前から、住民独自の除染実験を重ねた。環境省が表土はぎ取り除染の対象外とした屋敷林を「住民の日常の生活空間」として、林床から高木の枝葉までを取り払い、放射線量を劇的に下げる方法を編み出した=2017年3月11日の拙稿『東日本大震災6年「避難指示解除」は妥当か?:「除染実験」に挑む飯舘村の農家』参照。「村が帰還支援の事業として取り組み、不安払しょくに生かしてほしい」と役場に提案したが、環境省の手前もあってか、取り上げられなかった。
「できる限りの努力をしたが、コミュニティーは崩れてしまった。村は『行政区を復活させろ』と言うが、戻らない人にとって古里とは何なのか、自分には分からない」
原発事故が起きた当時、啓一さんは区長を務めていた。〈必ず帰るぞ、この比曽へ!!〉〈比曽は一つしかないんだぞ〉。除染で解体された地元の集会所には、住民たちが避難直前の11年5月末の「お別れ会」で黒板に残した寄せ書きが残っていた。
希望は「外からの力」
菅野区長が苦慮する地区別計画について、啓一さんは格別の思いがある。村の第4次総合振興計画(1994年策定)で登場した地区別計画は、村が各行政区に1000万円ずつの予算を配り、比曽では住民の委員会が10年を掛けて「何が地元に必要か」を議論。そこから区長時代の06年に、3つの憩いの公園や、全世帯が協力して家系図をつくり家々の絆を確かめる「比曽地区史」を完成させた。啓一さんが「宝」と呼ぶ成果だった。
地域を超えた住民同士の連帯も地区計画を彩った。「わいわいがやがやサミット」。村役場から遠い「周縁」に位置する比曽、長泥、蕨平、小宮、佐須、大倉、八木沢・芦原の7つの行政区が参加し、互いの活性化の知恵を議論し、民俗芸能と地元食材を楽しんだ。「飯舘村の良さは地域にあり」を実践するサミットは、震災前年まで回を重ねた。
その経験から、啓一さんはこう語る。「周縁のつながりは飯舘の村づくりの原点だった。1つの行政区で困難なことでも、地域同士がもう一度、共通の問題に知恵を出し合い、元気にし合える場をつくれないか。そして、帰還する住民が少ないのなら、その限界を破れるものは、新しい仲間になってくれる『外からの力』なのではないか」
啓一さんはこれまでの除染実験などで、東京大学農学部の学生、院生たちの応援を受け、若者の力に期待を持っていた。「飯舘村のこれからに可能性を感じて、夢を描いてみたい人を全国から募ればいい。俺たちも力を合わせて、またがんばれる。地域ににぎわいが生まれれば、戻ってくる仲間も出てくる」
「外からの力」は、実に230年前の天明の飢饉からの復興を助け、仲間になったという歴史がある。義人さんがこんな話をしてくれた。
「わが家の近くに、家の跡があり、相馬藩の招請で北陸から移住した御門徒(一向宗)の末裔が住んでいた。開拓者精神を持った人々が比曽に集い、天明の飢饉で死に絶えた家を受け継ぎ、土地を耕したのだ」
相馬藩はその時、村ごとに郷倉(穀物を蓄えた倉)を建てて次の災害に備え、赤ちゃんの間引きを厳罰化し、子育てのためのコメを(人数に応じて)支給し領民の暮らしを支援した。さらに「相馬藩御条目」を出し、住民が互いに助け合うことを基本に、五人組(家族のように苦楽を共にする)、十人組(親戚のような付き合い)、さらに村の住民が友だちのように助け合う――ことを定め、さまざまな人が集った地域の再生をはぐくんだ。
避難指示解除の後の3年余りで、飯舘村への移住者が100人を超えたというニュースも先年秋に流れた。村にとっては、これからにつながる朗報だ。
(了)



