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カントリー・スタディ ベトナム 1/4

べト(Viet=越)人は3000年ほど前に揚子江の南の地域から移ってきたと言われています。南に移住したべト人だからベトナム(VietNam=越南)というわけです。彼らはレッド・リバー(紅河)デルタ、つまりハノイ周辺地域に定着しました。

中国との地理的な近さもあってベトナムは常に中国からの支配を受けましたが10世紀に中国の政治が弱体化した隙に独立を果たしました。その後9世紀に渡ってベトナムは独立を保ち、中部ベトナムのチャム族を支配下に入れ、さらにメコンデルタをカンボジアから奪い、ラオスの大部分も傘下に入れました。こうして19世紀にフランスが出てくるまでベトナムは独立を維持しました。

この間、ベトナムは中国と15回戦いを交えており、その度ごとに中国を追い返すのに成功しています。しかしフランスに対しては屈し1887年に植民地となりました。

ベトナム人はこの屈辱を深く根に持ち、フランスに支配された以降も民族主義的なリーダーが次々に登場して植民地からの脱却を試みました。そのような独立を模索する動きの中で次第に西側の個人主義的なリベラルさを主唱するグループとホー・チ・ミンに代表される共産主義を唱えるグループとに分かれたのです。

ホー・チ・ミンは若い頃にベトナムを離れ、商船の給仕係として世界中を訪れ、1917年にフランスに渡っています。第一次世界大戦で疲弊したフランスを自分の目で見て、ベトナムを支配している宗主国がいかに弱体化しているかを実感するとともに欧州における当時の最先端の労働運動に次第に関わってゆきます。

特にフランスの左翼活動家達との交流はホー・チ・ミンを単なる愛国主義者から世界の思想の潮流をちゃんとわきまえた近代的な革命家へと変えました。ホー・チ・ミンは写真館で写真の修正の仕事をしていましたが、在仏ベトナム人愛国者団の中心メンバーとしてその名声を次第に高めてゆきました。それまで「バ」という名前だったのを「グエン・アイ・コク(阮愛国)」に変えたのもフランス時代です。

当時のパリの雰囲気は戦時下で経済はボロボロ、折からモスクワではボルシェビキ党が政権を握ったというニュースが入ってきました。パリのカフェでは左翼のインテリが夜遅くまで革命論議に熱中するという具合です。

ホー・チ・ミンはスイスから帰ってきたアナルコ・サンジカリストでレーニンとのコネもあるジュール・ラボーと親交を深め、フランス革命のルーツなど革命思想の理論的、歴史的背景をしっかり勉強する機会に恵まれました。こうしてホー・チ・ミンはフランス共産党の創立メンバーに名前を連ねるほど中心的な位置で活動したわけです。植民地主義に対抗するための手段は共産主義以外に無いという彼の考え方はこのような経験から醸成されたのです。

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(出典:ウィキペディア)
長い海外生活から帰国したホー・チ・ミンは1941年にベトミン(ベトナム独立同盟=つまり共産党の前線)を組織します。当時のベトナムはドイツと同盟関係にあった日本が、ドイツに占領されドイツの実質的な傀儡政権となった仏ヴィッシー政権と共同管理するという形式を取っていました。

第二次大戦後、列強は疲弊した自国の復興に忙しく植民地では力の真空状態が生じます。それまで機が熟すのを待っていたベトミンはこれを機会にベトナム民主主義共和国(Democratic Republic of Vietnam=略してDRV)を樹立します。

ベトミンは北ベトナムの市民をセルと呼ばれる組織単位で再編成し、隣人の相互監視や密告、自己批判など中国の共産党が援用していた手法を実施しました。それまでの村々の長は解任、粛清され、農業の共同管理が始められました。1954年から56年にかけて実施された農地改革では裕福な地主から土地や財産を没収しました。

このときは約50万人にのぼる国民が刑務所に収容されたり強制労働に従事させられたりしました。推定では10万人近い市民が処刑されたといわれています。このため地主の多くは南ベトナムに逃れました。こうした共産党のやり方に反感を持つ勢力は南に第二政府を樹立します。これがDRVの北ベトナムに対する南ベトナムというわけです。

フランスは共産主義国ではないので当然この第二政府の方を支持しました。そして北の内紛に乗じて軍隊を北ベトナムに派遣し、一時は共産党をハノイから追い出し山の中まで追い詰めました。しかしその後形勢が逆転し1954年にフランスはディエンビエンフーの戦いで敗れ、正式にベトナムから手を引くことを定めたジュネーブ協定を結びます。

共産党はハノイに戻り、一旦は「民主主義共和国」を名乗って共産党以外の党派を懐柔し、協調するかのように見せました。しかし、ひとたび権力の座につくと血なまぐさい粛清で共産党以外の勢力を一掃してしまいます。

一方、暫定的な境界を形成していた17度線以南の南ベトナムではバオダイ(保大)帝を奉りベトナム国(State of VietNam)が成立します。その後首相のゴ・ディエン・ジェムはバオダイを退け、大統領制、議会政治に基づいたベトナム共和国(Republic of VietNam)に名称を改変します。こうして北ベトナムも南ベトナムも自分が唯一の正当な政府だと主張するに至ったわけです。

北ベトナムは世界の社会主義国、共産主義国の支持を得て、一方の南ベトナムは西側諸国の支持を受けました。さて、ベトナムはジュネーブ協定により1954年に独立し、統一選挙を実施するはずでした。しかしジュネーブ協定は細目が不明瞭でいろいろな解釈の余地を残していたばかりでなく協定の実施を監視するはずの国際管理委員会がカナダ、インド、ポーランドからなるメンバー国間の意見の不一致で統一選挙そのものすら実施されませんでした。こうしてなしくずし的に分断に合意する協定が調印され、フランスは南ベトナムを去ったのです。

さて、北ベトナムは限られた耕地面積に比べて人口密度が高く、さらに農地改革の際、その土地にもっとも適した耕作を行う知恵を蓄えた農民の多くを農地から追い出してしまい、農業の経験に乏しい共産党による共同管理は深刻な減産を招きました。これが深刻な食糧危機を招き、北ベトナムは豊かな南ベトナムに影響力を伸ばすため1956年くらいからしばしば南で政府の転覆を狙う活動を展開します。これが1960年から62年にかけての解放のための戦争(War of Liberation)へと発展するのです。このように南ベトナムに潜伏し、政府転覆活動に従事する北の活動家のことをベトコン(VietCong=越共、南ベトナム解放民族戦線)と呼びます。

米国のベトナムとの関わりは1950年頃に遡ります。当時米国はマーシャル・プランに基づいてフランスに経済支援をしていました。その一環でフランスの対ベトナム政策にも協力したわけです。

当時の米国の期待するところはフランスが速やかに南の民族主義グループと和解し、インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジアなどの地域)の独立を認めるという事でした。しかしフランスは先に述べたように1954年のジュネーブ会議までベトナムの支配に固執します。

中国で共産党が実権を握ると米国、英国、フランスの各国は南アジアが共産主義拡散の防波堤として戦略的に極めて大事であると考え、南の民族主義グループを支援します。この決定の背景には若しベトナムが共産党によって支配されると共産主義の影響力がゆくゆくはタイ国などにまで波及するという、所謂、「ドミノ(将棋倒し)・セオリー」が広く米国の国民に受け入れられていたことも影響していると思います。

フランスが去った後の空白に乗じて北から潜入した南ベトナム政府転覆活動に対抗し、共産主義の拡散を防止するという名目でアメリカは1962年から南ベトナムに派兵しはじめます。

当時は南ベトナムの兵士を養成する時間が足らず、特に60万人を数えた南ベトナムの軍隊を指揮できるリーダーの育成が最も遅れていました。1966年の米国議会におけるマクセル・テーラー将軍の公聴会での質疑応答の記録によると米国の軍事顧問のベトナムへの派兵はこうした「現地の軍隊が自力で治安維持ができるようになるまで米国が指導する」という考え方に拠っていました。

南ベトナムの人々は北の共産党を恐れてはいましたが、かといって当時の南ベトナムの政府に全面的に信頼を置いていたかと言えばかならずしもそうではありませんでした。それはフランスがバオダイ帝を「お飾り」的に擁立し、さらに米国がゴ・ディエン・ジェム大統領のように長くベトナムを離れていて草の根の支持が無い人物を支持したことなどにもよります。

南ベトナムに潜入してくる北のテロ分子を南ベトナムの軍隊を訓練してこの掃討に努めるという作戦が成果を上げないことにしびれを切らした米国は1965年に北爆を開始します。こうしてゲリラ戦争は大掛かりな全面戦争へと拡大したのです。その後、テト攻勢、フエ事件を経て米国は再び1972年に大掛かりな北爆を敢行します。1973年にお互いに厭戦気分になった北ベトナムと米国はパリ協定を結びアメリカ軍は完全撤退しました。その後も北ベトナムと南ベトナムの戦争は続きましたが米国の後ろ盾を失った南ベトナムは次第に劣勢となり、1975年4月に南ベトナムは無条件降伏します。

南ベトナムの降伏で南北統一を成し遂げたベトナムは名称をベトナム社会主義共和国と改めます。平和が訪れたのも束の間、ベトナムは1979年にカンボジアへと侵攻します。これは当時中国の後ろ盾を得たカンボジアのポルポト政権がカンボジア内のベトナム人を迫害し、大量のカンボジア難民がベトナムに流れ込んだことが原因です。ベトナムはソ連から支援を受けており、カンボジアのポルポト政権は中国からの支援を受けているということで、この戦争は中ソの代理戦争の様相を呈していました。また、ベトナムのカンボジア侵攻に怒った中国はベトナムへと攻め入り中越戦争が始まりました。この戦争は装備や士気に勝るベトナム軍が優勢で中国は国境の外へ引き揚げます。しかしその後もにらみ合いは10年間に渡って続きました。

このようにベトナムは第二次世界大戦後から1980年代までの殆どの期間、戦争ないしは緊張関係にあり経済の方はソ連からの支援に仰ぐという姿勢が定着していました。しかし次第に経済の疲弊は悪化し、現状打開のためにベトナムは1986年にドイモイ政策を打ち出します。一方、ソ連経済は1989年のベルリンの壁崩壊の頃からどんどんおかしくなり、ソ連からのベトナムに対する援助は途絶えてしまいます。皮肉なことにソ連に依存できなくなった頃を境にそれまで混迷を極めていたベトナムの経済は活力を取り戻し始めます。

さて、ベトナムの歴史を振り返って特徴的な点として同国は長く帝国主義や代理戦争の犠牲になってきたため、欧米や中国のものの考え方をすんなりとは受け入れない気風があるということです。これは長く虐げられてきた立場からすれば当然の事だと思います。またフランス、アメリカ、中国などの大国と戦争していずれも勝ってきたことがベトナム人の大きなプライドとなっており、それが「自分達は誰からも教えられることは無い」という態度になっています。

中国が経済特区を設けて資本主義の実験を開始した頃、ベトナムは未だカンボジアと戦争していたわけで、それだけでも経済の自由化への取り組みは中国に比べて10年くらい遅れていると言えます。その上、ベトナムの改革のペースは中国のそれと比べて緩やかで、且つ腰が据わっていない印象があります。

中国共産党の場合中国経済を正しい方向へ導くことこそが一党独裁を正当化する最大の理由であり、また責務であるという姿勢がひしひしと伝わってきます。これに対しベトナムの共産党は戦争に勝ったことで自分達が政権党として居座る正当性を永遠に保障されたという考えが根強く、政府は経済政策に関しては誰に対してもアカウンタブル(責務を負うこと)でないという傲慢な態度が時として見え隠れします。これが外国企業が直接投資する際に二の足を踏む要因となったり、遅々として民営化が進まない原因になっているのです。


カントリー・スタディ ベトナム は2007年に楽天証券のホームページ上の『新興国投資レポート』で掲載された過去記事に加筆、削除、アップデートを加えたものです。

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