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特集
3.11から、10年
2011年3月11日の東日本大震災から丸10年。未曾有の被害を生んだ震災から我々は何を学び、どんな10年間を過ごしてきたのでしょうか。復興の歩みを追いつつ、いま私たちにできることや、未来の防災について考えます。

涙で明かした葛藤。私は震災を語っていいのか…乃木坂46久保史緒里、被災したふるさとへの思い

  • 2021年03月09日 10:00
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「自分よりつらい体験をしている人は多い」
そんな思いと、被災地のために自分も何かを伝えたいという気持ちのはざまで。
アイドルと新聞記者、それぞれの発災10年。

撮影・塩畑大輔

「私は、宮城県がとても好きで、一生宮城にいると思っていました」

透き通るような白い頬が、ほんの少しだけ、確かに赤らんでいる。
静かな口調と裏腹に、彼女の内側で感情が高ぶっているのが見て取れた。

「だから、東京に来たことにも、どこかですごく負い目を感じていて…そんな私が、震災のことについて語れることなんか、何もないんじゃないかと」

大きな瞳に、涙が浮かんでくる。
言葉が震えて、すぐには続かなくなった。

東日本大震災の発災当時、乃木坂46の久保史緒里さんは小学3年生だった。
仙台市内で被災し、津波被害を受けた親族もいた。

そんなルーツもあって、毎年3月11日にはブログに被災地への思いをつづってきた。
だがその言葉はどこか遠慮がちで、自分の体験に触れることもなかった。
 

震災報道記者ってどんな人?

そんな彼女が今回、震災をテーマとしたオンライン対談企画を受けてくれた。

対談相手が所属するのは、河北新報社。
仙台市に本社を置き、東北地方全域で報道活動をするブロック紙の雄である。

その中から、報道部・震災遊軍班の記者が、対談相手として選ばれていた。
当日、リモート対談の現場に現れた久保さんの表情は、硬かった。

「震災をテーマとした対談は初めてなので。それにやはり、あの河北新報さんですから」

発災直後の1枚。河北新報は東北を代表する新聞社として、被災地の現状や課題を伝え続けている(提供・河北新報)

仙台育ちの久保さんにとって、河北新報は特別な新聞社だった。
その中でも震災遊軍班は、選りすぐりの記者をそろえ、震災報道の中核を担っている部署だということも聞かされていた。

「あんなに大きな新聞社の中心で、震災報道を続けている方というのは、どういう方なんでしょうか」

自分が対談相手として、本当にふさわしいのか。そんな不安もあった。
落ち着かない様子で、まだ自分しかいないZoomの画面をじっと見つめ続けている。
 

ラジオも聞いてますよ

そこに現れた記者は、思いのほか若かった。

「乃木坂の曲、よく聞かせてもらってます」

横川琴実記者。入社7年目の29歳。
震災遊軍班で唯一、10年前の発災よりも後に入社したメンバーだ。

撮影・塩畑大輔

「昔、久保さんがラジオでお話しになっていたこともよく覚えていて」

「えっ、本当ですか…!ありがとうございます!」

「はい、確か伊達政宗のことを聞かれた流れで『楽天イーグルスのことならなんでも知っています!』とおっしゃって」

「確かにその話、しました!」

撮影・塩畑大輔

一瞬にして打ち解けた空気になった。
画面の向こうの横川さんはにっこりと笑うと「今日はよろしくお願いします」と小さく頭を下げた。
 

震災のことなど話したくない

久保さんには聞きたいことがあった。

「横川さんはやっぱり、もともと新聞記者志望だったんですよね」

震災について発信するには「覚悟」が必要だと感じている。
それを日々続けているような職種の人は、どんなバックグラウンドを持っているのか。

横川さんは、静かに首を振った。

提供・河北新報

「確かに新聞配達をしている親類がいて、私も母と一緒にそれを手伝ったりと、新聞業界を身近に感じる環境にはあったのですが」

ゆっくりと、それでいてひときわ語気を強めて言う。

「私は震災のことなど発信できない。あまり話したくない。もともとはそう思っていました」
 

テレビに映る「親友を襲う津波」

横川さんは福島に生まれ、2010年に仙台市内の大学に進学した。

「その日」はたまたま、弟の中学の卒業式に立ち会うために帰省していた。
目的を果たした後、実家近くの中学時代の友人宅を訪れている時に、巨大地震は起きた。

棚の上のものが次々と落ちてきた。ただ事ではない。すぐに実家に戻ろうと思った。
その前に、大学でできた親友に安否確認のメールをした。「大丈夫」。すぐに返信があった。

ほっとした。徒歩で帰り着いた実家も、大きな被害までは受けていなかった。
だが、状況確認のためにテレビをみて、青ざめた。

さっきメールを返してくれた親友が住む名取市の閖上地区が、津波に襲われていた。

「ねえ、なんで?なんで?」
取り乱した。泣き叫んだ。逃げていてほしいと思いながらも、あまりの光景に絶望した。

こんなの、逃げ切れるわけがない。
そう思ってしまった。
 

自分は無事、という「罪悪感」

親友はのちに、変わり果てた姿で発見された。
母親とともに、避難所に逃げる途中だったそうだ。

仙台市内にいた大学の同級生の多くは無事だったが、避難所で大変な生活を余儀なくされていた。

震災当日、帰宅困難者で埋まった仙台市内の小学校(提供・河北新報)

そんな中、横川さんは家族と過ごせた。電気も水道も無事。食べるものにも困らなかった。

罪悪感のようなものを覚えた。
私は震災のことを語ってはいけない。語りたくない。そう思うようになった。
 

「後ろめたさ」は私にも

「そうだったんですね」

久保さんは驚いていた。
震災報道の現場のど真ん中にいる記者が、そんな過去を抱えているとは思わなかった。

慎重に、考えながら語るタイプだが、この時はなぜかスッと言葉が出た。

「私も、後ろめたさみたいなものはありました」
 

安全な場所。自分だけが…

2011年、久保さんは小学3年生だった。

仙台市内の小学校で本震に見舞われた。
みんなで校庭に避難した。余震が起きるたび、誰かが泣いた。とんでもないことが起きたのは、子ども心にも分かった。

怖い。お父さん、お母さんに会いたい。
気丈に涙をこらえながら、久保さんはそれだけを思っていた。

やがて、両親が迎えに来てくれた。
よかった。ただただ、安どした。涙がこぼれた。

家に帰ると、電気も水道も止まっていた。
ラジオもかつてない被害の状況を伝えていた。だが、家族といられる安心感が上回った。

それが変わったのは3日後。電力が復旧した時だった。
テレビで初めて、津波被害の惨状を目の当たりにした。ショックだった。

提供・河北新報

徐々に身の回りの情報も伝わってきた。
発災当日、同級生の多くは両親が迎えに来られず、学校で不安な夜を過ごしたという。

安全な場所にいられたのは自分だけ。
子どもながらに、そんな思いが去来した。
 

なぜ記事を書こうと

「私の祖母の家も津波で流されてしまったんですが、でも命は無事だった。だからとにかく、私は恵まれていて、被災体験を語るような立場にはない。そう思うようになったんです」

家族や親友以外に、ここまでを吐露したことは、今までになかった。
語れたのは、横川さんが同じような葛藤を明かしてくれたからだ。

だから、重ねて聞きたかった。

「横川さんはなぜ、震災について取材し、記事を書こうとまで思えるようになったんですか?」
 

海外にあった「転機」

画面の向こうの横川さんは、優しく微笑んだ後に、ゆっくりと語りだした。

「語り継ぐことの大事さを教えてもらう機会に恵まれたんです」

提供・河北新報

大学も被災していたが、関係者の尽力で、やがて授業は再開された。
横川さんは息をひそめるようにして学生生活を送った。「震災の時、大丈夫だった?」と聞かれるのが、ただただおっくうだった。

転機は海外にあった。
ドイツの大学が、日本の被災地の大学生を対象に留学資金を補助してくれると知った。思い立って、参加することにした。

現地では、被災体験を語ることを求められた。
「私は語れる立場にない」。そう思ったが、招いてもらった手前、何か恩返しはしたかった。

横川さんは初めて、震災について誰かに語ることになった。
 

「彼女と生きていきたい」。涙する聴衆

とはいえ、自分のことは話すほどではないと思った。
では、何を話せばいいのか。ふと、親友のことを思い出した。

「語り」の前夜。
横川さんは親友のお兄さん、そして叔母さんにメールをした。

明日、奨学金を下さっている団体の前で、
去年の地震に関するプレゼンをしてきます。

もし、あきもの話を知らない場所で言うことによって、
みなさんが嫌な気持ちになってしまったら
本当に申し訳ありませんが、
一人の東北大生として、
何よりも私の大事な友達として、
あきものことを言おうと思っています。

(※あきも、は親友のニックネーム)

当日。横川さんは親友のことを語った。
親友の親族から託された遺品の3色ペンを掲げ「彼女と生きていきたい」と言った。

聴衆は話に聞き入った。
涙する人までいた。

「つらい思い出を語ってくれてありがとう。災害の恐ろしさを、みんなが知ることができた」

そう礼を言われた。
 

亡き親友の導き。震災報道のど真ん中へ

「伝えることは大事なんだと感じました。私が大変な経験をしていなかったとしても、他の人の経験を通して語ることはできるし、語る意義もある。それが今の仕事に通じるものかなと」

横川さんは新聞記者を志し、河北新報の入社試験に合格した。

記者になったことは、決してゴールではなかった。
やりたかった被災地の取材では、壁にぶちあたり続けた。

被災者に話を聞く際には、どうしても及び腰になった。
「自分よりはるかに大変な思いをされているのに、そこを自分などがほじくり返していいものか」。そんな思いが、いつもブレーキになった。

震災翌日の名取市閖上。津波で流されたがれきや車が散乱する(提供・河北新報)

先輩、上司から「記事が軽い」と指摘されると、胸が痛んだ。
「やっぱり私は被災体験が足りないから…」。そう思ってしまうこともあった。

だが、留学先での思い出が、横川さんを支えた。
語り継ぐことには必ず意義がある。誰かの命を救うことにもつながる。そう思いなおして、必死に取材を続けた。

自宅の部屋にはあの3色ペン。自分を導いてくれるような気もした。
そして亡くなった親友は、実際に「きっかけ」もくれた。

2018年、横川さんは親友のことを記事にした。
これが当時の上司の目に留まった。2年後。震災遊軍班に抜擢された横川さんを、班のキャップとして待っていたのは、その上司だった。
 

一生かけても理解しきれない。それでも…

「先輩記者のように、当時震災の現場に行って取材をしていたわけじゃないので、当時の混乱が分からない部分も私にはたくさんあります。でも、まさに自分のような『震災のことを知らない人に伝えていく』ことを考えると、それは悪いことばかりでもないのかなとも思うんです」

横川さんは熱っぽく語る。

「亡くなった方の無念や、大切な方を失った方の大変さ、家を失った方の大変さなどは一生かけても理解しきれないところはあります。それでも一生懸命、自分なりに理解をして、他の人に伝えるようにしないといけない。そう思って、日々取材をしています」

提供・河北新報

静かに何度もうなずきながら、久保さんは話に聞き入っていた。

「すごいですね。いろいろ葛藤された上で、覚悟を固められて。それに比べて私は…」

「いえ、久保さんのお気持ちはすごく分かります。注目されるお立場だから、簡単にいろいろ発信できないのも」

「それに」と言って、横川さんは続けた。

「久保さんだからこそ、被災地のためにできていることって、もうあると思うんです」
 

全国区で活躍しているからこそ

2016年に仙台市東部にできた「せんだい3.11メモリアル交流館」という伝承施設。
その中に「仙台沿岸イラストマップ」というコーナーがある。

訪問者が付箋に自由に思いを記し、地図上に貼ることができる場所。
そこを取材で訪れた横川さんが目にしたのは、久保さんのファンによる書き込みだった。

「久保史緒里さんがおすすめしているのをテレビでみて、宮城の水族館に来ました」

そんな旨が書かれていたという。
横川さんは言葉に力をこめる。

「仙台出身で、全国区で活躍されているからこそ、久保さんをきっかけに仙台に来て、さらには伝承施設に足を運んでまで震災について学ぼうと思う方がいる。それは本当にありがたいことです」
 

突然こぼれた涙。”免罪”の言葉

その言葉を聞いていた久保さんの瞳が、みるみる涙をたたえだす。
こらえていたが、やがて大きな一粒が、白い頬を伝って落ちた。

「大好きな宮城を出て、東京に来たことも、実はすごく負い目に思っていたんです」

懸命に復興の道をたどる故郷を離れ、自分だけ東京に出る。
その決断をしたことは「自分だけ、両親に迎えに来てもらえた」発災当日の思い出とともに、久保さんの心を責めさいなんでいた。

提供・河北新報

せめて東京で、宮城のために。
その思いは強かったが、自分ひとりで何ができるというのか。無力感はさらに「私は震災を語ってはいけない」という思いに拍車をかけた。

久保さんの心に、おりのように重なる罪悪感を、横川さんの言葉は優しく解きほぐした。
「自分だからできていることが、実はある」。そう気づかせてくれた。

あの日以来初めて、「許された」気がした。
だから、涙がこらえきれなかった。
 

発災10年。これから必要な「力」

同席していたスタッフが、あわててハンカチを差し出す。
静かに、丁寧に涙をぬぐうと、久保さんは決然とまなざしを上げた。

その瞳には、涙に変わって決意のようなものがたたえられていた。

「今までもブログで、できる限りのことを伝えようと思っていました。でも一番伝えたいことは言えずにいた。横川さんのご経験と、今のお話をうかがって、怖がるのをやめようと思いました。自分は無意識のうちに、逃げていたのかもしれません」

横川さんが少しあわてたように首を振る。

「あまりご自分を責めすぎないでください。悩まれてきたのは、すごく分かりますから。私だって、悩んでいる最中ですし」

それに、と付け加える。

「発災から10年を過ぎるこれからこそ、久保さんのお力が必要なんじゃないかとも思うんです」
 

津波被害が「遠い過去」に

横川さんが引き合いに出したのは、仙台市内の専門学校に通う学生を取材した時のことだ。

10年前、少年だった彼は、陸前高田で被災した。

すぐ背後から、津波が木々をへし折るような音が聞こえる。
振り返る余裕すらないような、ギリギリのところを走って逃げて、何とか助かったという。

その体験を語ってもらったが、その後でこういう話も聞いた。

「僕は学童保育のアルバイトを地元でしているんですが、あのすさまじい被害を受けた陸前高田でさえ、震災後に生まれた子どもたちからすると、津波被害は遠い過去、歴史上の話なんです」

自分の体験を語って聞かせても、簡単には重くとらえてもらえないというのだ。
 

いかに関心を?私たちの「希望」

これまでは、記憶の風化をいかに防ぐか、が課題だった。
発災から10年。これからは「記憶を持たない世代に、いかに語り継いでいくのか」になる。

「これは本当に難しいことだと感じています」

横川さんは唇をかむ。

「震災報道の役割は2つあると思っていて、1つは被災され、亡くなられた皆さんの生きてきた証を残すこと。もう1つは、次の災害に備えてほしいという願い、祈りを伝えていくということです」

提供・河北新報

言葉が熱を帯びる。

「これからの人たちのために、次の災害に備えること、つまり2つ目を意識していかないといけないと思うんです。その時にはやはり、いかに震災を縁遠く感じている層に自分ごととして受け取ってもらうか、が大事になります。自分の身の回りにも起きうることだ、と」

何度もうなずいて聞く久保さんに、横川さんが投げかける。

「東北以外に住む人たちや、震災後に生まれた人たちに、いかに関心を持ってもらうか。その意味で、久保さんの存在は私たちの希望なんです」
 

無理せず、背負いすぎず、自然体で

宮城と東京のはざまで、久保さんは悩み続けてきた

だが、はざまにいるからこそ、東北と全国をつなぐ「接点」にもなれる。
横川さんはそう訴えた。

「震災はテーマとして重すぎるというのも、縁遠い層の皆さんに伝える難しさにつながっています。その意味でも、無理をせず、背負いすぎずに自然体で、伝えたいと思う範囲で伝えてもらえたら、すごくありがたいことだと思うんです」

聞く久保さんの目は、うるんでいるように見えた。
だが今度は、涙がこぼれることはなかった。

「私にできることは小さいことだと思うんですが、より積極的に宮城のお話をさせてもらって、興味を持ってもらって、結果として現場を見てもらうというのは、私にもできるような気がします」
 

震災の記憶、伝える一助に

「いつか必ず、直接お会いしましょう」

そう誓い合ったところで、オンラインでの対談は終わりとなった。

久保さんはしばらく、誰もいなくなったZoomの画面を眺めていた。
しばらくして、ポツリと言う。

「私、小学3年生でしたけど、発災当日のことは何一つ忘れてないんです。何を食べたとか、何が手に入らなかったとか、何が怖かったとか、すべて覚えているんです」

「そしてなにより、何もできなかったことを覚えています。守られているだけで。それがずっと負い目でしたけど、そこも含めて話をしていくことにも意味はあるのかなと。横川さんのお話をうかがっていて、強く感じました」

負い目を認めて、それでも前を向く。
それが本当の強さだと、久保さんは感じていた。

発災当日の現場を知らない自分だからこそ、「知らない層」に伝えられるところもある。
そういう横川さんの考え方も、強く心に残った。

「かっこいいですね。いつか本当に、お会いしたい」

胸を張ってその日を迎えるためにも、自分も震災の記憶を伝える一助になりたい。
久保さんはそう誓う。

「あなたは希望」
横川さんの言葉を胸に、新しい一歩を踏み出す。

撮影・塩畑大輔

【取材協力=河北新報社、乃木坂46合同会社、取材・文=塩畑大輔】

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