2000票差で初当選…1996年の国政選挙で繰り広げられていた“菅義偉”と“創価学会”の激突とは から続く
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菅義偉首相の長男正剛氏が勤める放送会社「東北新社」による接待問題で国会が揺れている。山田真貴子内閣広報官は、会食の場において「不適切な働きかけはなかった」と報告するものの、一切の見返りなしに高額な接待を複数回行うことがあり得るのだろうか。
菅義偉氏には総務大臣就任直後、放送に対する政治介入ともとられかねない積極的な動きがあった。“放送”に絶大な権力を振るってきた男の影響力が今回の騒動の発端になったと考えることはいたって自然だ。ここでは、ノンフィクション作家の森功氏が首相の素顔に迫った『菅義偉の正体』(小学館新書)を引用。菅義偉氏の政治信条、そして総務大臣時代に行った放送局への「指示」を紹介する。(第2回の2回目/前編 を読む)
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新自由主義
永田町には、東北の豪雪地帯に生まれ育った菅義偉について、新潟出身の田中角栄と同じ視線でとらえるきらいがある。日本列島改造論を引っ提げ、新幹線や高速道路、空港や原発を全国に網羅していった田中に対し、菅もふるさと納税などを提案し、地方の活性化を訴えてきた。鉄道や道路など運輸行政についても関心が高い点からも、田中とダブらせて語る向きもある。
菅義偉氏 ©JMPA
だが、二人には決定的な違いがある。菅は小此木から政治手法や政策を学んだ。師である小此木は、中曽根康弘が欧米の政策に倣って導入した構造改革や民活路線の旗振り役でもあった。旧国鉄の民営化などがその最たる政策である。
つまるところ菅は東北の田舎臭いにおいを周囲に振りまきつつ、田中角栄のような公共工事重視の地方土着型の政治家ではない。中曽根民活路線時代から小此木彦三郎を支援してきた鉄道・運輸業者を自らの味方につけ、その後、小泉純一郎が進めた規制改革、いわゆる新自由主義路線のレールに乗ってきた。本人が意識していたかどうかは別として、そこでは旧田中派、つまり平成研の実力議員たちと衝突せざるをえなかったのだろう。
自民党をぶっ壊す─というキャッチフレーズがすっかり有名になった小泉と同じく、一時は自民党内で反乱分子ととらえられる。小渕派を飛び出した梶山を担いで、野中と衝突したのも、その一例にすぎない。その点を小此木八郎に尋ねてみた。
─菅の原点は中曽根民活にあるのか。
「それはたしかにあると思います。だからいわゆる昔のような族(議員)じゃないんだよね。この問題についておまえらは入れねえ、おれが専門家だ、という話にはしない。たとえば農協改革にしてもそう。農産物を内向きのものだけで済ませてしまえば、日本は終わってしまう。海外に手を伸ばし、流通を結べるような成長戦略を描かなければならない。菅さんの主張は、ぜんぶ理からきているんです。自分の理屈を通すというのは大切ですよね」
「いわゆる族議員じゃないんですよ」
─その理屈は、中曽根以降の新自由主義の流れをくんでいるのか。
「新自由主義という言葉遣いは僕にはわからんけど、そこでいろんな知恵を出せ、ということだと思います。だからこの一つの政策は畑違いなので黙っているのではなく、ある政策に精通しているという専門家ではない。初めて話を聞いても、そこは違うんじゃないか、と思えば、そう判断する人だと僕は思います。それはおかしいでしょう、っていうのが口癖。それで確認するんだろうね。だから、いわゆる族議員じゃないんですよ」
族議員との呼称には、政官業のトライアングルに巣食う利権を貪る悪徳政治家のイメージがつきまとうかもしれないが、本来は政策通の政治家という意味だ。議員が得意分野の政策を持つことは決して悪いことでもない。
郵政民営化を通じて変わった菅義偉に対する評価
自民党政務調査会では産業分野ごとに委員会や部会を設け、新人議員とベテラン議員が企業や霞が関の官僚とともに業界のことを学ぶシステムがある。そこに癒着が生じて金権政治の温床になってきた過去があった事実は否めない。半面、省益を優先し国の政策を歪めてしまう官僚に対抗するための政策研修という一面もあり、族議員が力を持ってきたのは、その結果でもある。もとより国会議員なら誰でもそのくらいの理屈は理解しているだろうが、メリットとデメリットのどちらも生じている。それが政治の現場といえる。
一方、必ずしも規制緩和路線が悪いわけでもない。が、競争原理を働かせるという旗の下、欧米から輸入した新自由主義が、国内における昨今の格差社会問題を引き起こした要因であることも、否定のしようがない。
日本でいえば、規制改革の代名詞となったのが、小泉政権でおこなった郵政民営化だろう。周知のように、郵便、銀行、保険という三事業を分割・民営化しようとした大改革である。小泉自身がずっとこだわり続けてきた政策であり、小泉内閣に規制緩和路線の要として経済財政政策担当大臣や金融担当大臣、さらには総務大臣を歴任してきた竹中平蔵がそれを実現させたとされる。
2005年11月、菅は第三次小泉改造内閣で竹中が総務大臣ポストに就いたとき副大臣に就任した。そこで菅は、郵政民営化に向けた実務の現場で汗を流した。以来、現在にいたるまで、みずからの政策について竹中と定期的に会い、指南をあおいでいる。
菅の近親者たちは必ずと言っていいほど、政治家として菅が飛躍した転機の一つとして、この総務副大臣経験を挙げる。換言すれば、それまでの菅は大して注目されていなかったということだ。郵政民営化は小泉が方向を決め、竹中が指示し、菅が仕上げた。郵政民営化の実現により、実務に長けた政治家として菅の評価が上がったのは間違いない。
2012年12月、自民党が民主党から政権を奪還し、第二次安倍晋三内閣がスタートすると、菅は民営化された日本郵政の社長人事に手をつけた。翌13年6月、社長に就任して半年しか経っていない元財務次官の坂篤郎を顧問に棚上げし、東芝元会長の西室泰三(故人)を後任に据えた。民主党寄りと見られた坂に対する露骨な人事介入だとも批判されたが、本人はそれを尻に聞かした。
安倍との出会い
言うまでもなく自民党内で一目置かれ始めたそんな菅をさらに政界中枢に引き立てた最大の恩人は、安倍に違いない。安倍は2006(平成18)年夏、6年におよんだ小泉長期政権の終わりが近づくにつれ、後継首相候補の最右翼と目されていた。そこで菅は安倍を担ぎ出した。安倍を首相にした功労者の一人でもある。
「安倍さんの初めての総裁選のとき、どうして安倍さんを担ぐのか、と菅さんに尋ねたことがありました。理由は理解しづらいかもしれませんが、菅さん独特の感覚とでもいえばいいのでしょうか。いつもそうです」
小此木八郎が安倍と菅との関係について、話した。
「小泉さんが初めて総裁になったとき、実は菅さんは橋本龍太郎を推していました。『八ちゃん、悪いな、橋本龍太郎が出ると言うから、仕方ない。俺はもともと橋本派だったから(義理もあるので)やらなきゃいけねえっ』と言うんです。(いまさら橋本でもないから)僕はそのとき麻生さんを担ごうとしたけど、麻生さん本人が出なかった。それで、何年か経って今度は安倍さんだと言い出した。それで改めて聞いてみたのです。すると菅さんは、『安倍さんが北朝鮮問題を真剣にやっていたからだ』というのです。党の拉致問題関連部会でいっしょだったみたい。ちょうど菅さん自身も、万景峰号の入港問題に取り組んでいたころで、『この人を立てていこうと決めたんだ』という話をしていました」
安倍との出会いについて、菅本人のインタビューで尋ねた。