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信用乗数論は信用できるか――マイナス金利について考える - 中里透 / マクロ経済学・財政運営

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日本銀行による大規模な金融緩和(量的・質的金融緩和)がスタートしてから、あと1月ほどで8年が経過する。マネタリーベースを操作対象とする教科書通りのシンプルな枠組みであった「異次元緩和」にはさまざまな付属品がついて、いまでは建て増しを重ねた温泉旅館のようになってしまったが、マイナス金利政策の導入から5年という時期にも当たる現在の時点で、これまでの経過を振り返っておくことは有益な試みであろう。

ここではその出発点として、「信用乗数論」というキーワードをもとに、現在の金融政策の基本的な枠組みとそのもとでの金融政策の運営について点検を行っておくこととしたい。

なお、信用乗数(貨幣乗数)をめぐっては、マネタリーベース(ハイバワードマネー)とマネーストック(マネーサプライ)の間に安定的な関係があるか(乗数は安定的か)、マネタリーベースを増やすとその乗数倍だけマネーストックが増えるという機械的なメカニズムを想定することは妥当なのかといった点が伝統的に論点とされてきたが、以下では信用乗数の説明において想定されている信用創造のメカニズムに焦点を当てて議論を進めていくこととする

(したがって、本稿において「信用乗数論」とあるのは、「教科書的な信用乗数論の説明において想定されている信用創造のメカニズム」とするほうが適切であるが、記述の簡素化のためにこの点も含めて「信用乗数論」という表記を用いることとする)。

1.信用乗数論は信用できるか 

「本源的預金」はどこから来たか

マクロ経済学の入門書には必ずと言っていいほど信用乗数論というものが登場する。中央銀行が供給したお金が市中銀行(民間金融機関)を経由して家計や企業の手元に渡るという構図は、商品が製造元から卸・小売を経て消費者の手元に渡るという流通経路のアナロジーで金融政策の説明ができるため、初学者にもわかりやすくとても便利だ。

もっとも、この構図がいったん頭に入ったら、金融調節の実際に立ち戻って金融政策の枠組みを理解し直すことが必要であろう。この作業が欠落してしまうと、「マイナス金利を導入すると、銀行が日銀に預けていたお金を引き出して貸出に回すようになる」といった不思議な説明が世の中に流布してしまうことになるからだ。

信用乗数論では「はじめに現金ありき」ということで、家計や企業が保有している現金(あるいはそれをもとに創出される本源的預金)を起点に信用創造が行われ、その結果、本源的預金の何倍ものお金(現金と預金の合計)が生み出されると説明されることも多い。

だが、家計や企業が保有している現金は天から降ってきたものではなく、日本でいうと日銀が紙幣の形で発券したもの(日銀券)と財務省が硬貨の形で発行したもの(補助貨幣)が「現金」の実際の姿ということになる。

その現金が銀行に預け入れられたとしても、銀行が受け取ったものが日銀券と硬貨であることに変わりはない。となれば「その日銀券はいったいどこから来たのか」というところから話を始めないといけないということになる(なお、この文脈において日銀券と硬貨を区別することには本質的な意味がないので、以下では日銀券のみをもとに記述を行う)。

日銀は民間銀行の貯金箱?

多くの場合、いま手元にあるお金(現金)はキャッシュカードなどを使ってATM(現金自動預払機)から引き出したものだろう。もちろん、預金通帳と印鑑をもって銀行に行き、窓口で現金を払い出してもらうのが、「預金をおろす」ことの伝統的な姿ということになる。

それでは銀行が預金者の求めに応じて払い出すお金(現金)はどのように調達されるのかとなれば、預金者が銀行から預金をおろすのと同じように、銀行が日銀に積んでいる預金をおろすことで確保される。この預金が、教科書によくある表現を用いると「日銀預け金」、一般的な言い方では「日本銀行当座預金」ということになる(もちろん、より一般的な表現として「準備預金」という呼称もある)。

このように、現金の預け入れと払い出しという側面を強調すると、民間金融機関が日銀に開設している預金口座(日銀当座預金)はお金を貯めておく貯金箱というイメージができあがることになる。

マイナス金利政策が導入された2016年には「マイナス金利を導入すると、銀行が日銀に預けていたお金を引き出して貸出に回すようになる」という解説が新聞やテレビでよく見られたが、その背景には日銀当座預金に対するこのような理解があるということになるだろう(このような解説の仕方のどこが変なのかについては後述)。

日銀当座預金は貸出に回すお金の倉庫?

教科書的な信用乗数論の解説においては、銀行に預けられた本源的預金(現金)が貸出に回され、そのお金を借りた人(あるいはその人から商品の代金などの形でお金を受け取った人)が再び銀行に預金をすることでさらに預金(派生的預金)が生み出され、その預金をもとに銀行が新たな貸し出しをすることでさらに預金と貸出が増えていく(信用創造が行われる)という説明がなされる。

このような説明は、現金を媒介としてすべての取引を記述することができ、取引の当事者の間をお札が行ったり来たりすることでお金(現金と預金の合計)が増えていくというイメージのもとで信用創造のメカニズムをわかりやすく解説することができるという点ではとても便利だ。この説明は「銀行は預金を元手にして貸付を行っている」という日常生活の感覚とも合っている。

このように預金⇒貸出⇒預金⇒貸出(以下、繰り返し)という形で資金の取引がなされると、本源的預金の何倍もの預金(派生的預金)が生み出されることになるが、その一定割合は中央銀行(日本の場合でいえば日銀)に準備預金の形で積んでおかなくてはならないとされている(法定準備)。

また、局面によっては法定準備を上回る準備預金が中央銀行に準備として積まれていることもある(超過準備)。超過準備については必要に応じて中央銀行から引き出すことができるから、この側面を強調すると、貸出に回すお金の在庫をストックしておく倉庫というイメージができあがることになる。

「現金」主義に基づく錯覚

銀行は預金を元手に貸出を行っており、日銀当座預金は貸出に回すお金の倉庫であるという理解に立てば、「マイナス金利が導入されると、銀行は日銀に預けていたお金を引き出して貸出に回すようになる」という説明は極めて自然なものということになる。

日銀当座預金にマイナスの付利をするということは、預金の残高に応じて口座管理手数料を徴収するのと同じことであり、お金を保管しておく倉庫の賃料が高くなることを意味するから、民間金融機関は倉庫(日銀当座預金)から店舗に在庫(お金)を移して販売(貸出)に回すことが合理的ということになるからだ。

だが、この説明においては「日銀に預けていたお金を引き出す」ということが現金の払い出しを意味するということが見落とされている。

現金にはどのような取引にも利用でき(強制通用力がある)、その受け渡しのみで決済を完了させることができる(ファイナリティがある)という優れた性質があるが、占有者(紙幣を持っている人)が所有者と見做されることから紛失したり盗難に遭ったりした場合のリスクは大きく、そのため現金の管理と運搬には多額のコストをかけて安全を期すことが必要になる。このことは銀行だけでなく借り入れを起こした個人や企業についてもいえる。

現金の保有と利用に伴うこのようなコストの存在を考慮すると、マイナスの付利(事実上の口座管理手数料の徴収)を回避するために日銀当座預金からお金をおろす(現金を引き出す)というのは必ずしも合理的な対応とはいえないということになる(なお、日銀が実施している現行のマイナス金利政策の枠組みでは、金融機関が現金保有を増やしてマイナス金利の適用を回避することについて、制度上もそのような行為を抑止する措置がとられている)。

教科書的な信用乗数論の説明において想定されている信用創造のメカニズムは、それぞれの取引をお札(現金)が媒介するという仕様で構築されているため、お札の受け渡しを通じて日常生活の感覚で金融政策の枠組みを理解しやすいというメリットがあるが、気を付けないとさまざまなところで錯覚を生じさせる原因となる。

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