令和3年2月23日は、令和に入って二度目の天皇誕生日である。
平成から令和への改元は5月にあったから、令和元年は天皇誕生日のない年だった。
明治以降で「今上天皇」の誕生日がなかった年は「平成31年改元あって令和元年」が初めてだった。
天皇皇后両陛下 ©️時事通信社
江戸では天皇の誕生日は祝っていなかった?
天皇誕生日が祝日となったのは明治となってからである。
明治元年(対応西暦はだいたい1868年)はまだ旧暦のころで、この年、新政府は慌てたように8月に「九月二十二日」が当時の今上帝(明治天皇)の御誕辰の日であるから休日とするという布告を出す。まだ戊辰戦争が継続中のころである。
その当日の9月22日、明治帝は「京都から江戸への御遷幸の途上」であって、つまり京都御所から江戸城へ遷る最中で、まだ近江(滋賀)の土山宿にあり(だから京都を出てまもないころである)、そこで初めての天長節が祝われた。「旅の途中の誕生日祝日」である。江戸の古老によると、江戸にはまだ天皇陛下もおられないので(江戸開府以来、この時点まで一度も江戸に天皇がいたことはない)、庶民は誰も何の祝いをすることもなかったと、証言している。(これは明治帝が崩御した年、明治45年が改まって大正元年11月3日の東京朝日新聞に載っている記事で、ソースはこの記事だけで、他の資料にあたる裏取りはしていない)
明治3年になっても天長節はまったく浸透しなかったため、太政官布告でわざわざ「みんなも陛下のめでたい日をお祝いしてください(衆庶一同、御慶辰を祝して奉り候様)」という達しが出たほどであった。
誕生日も律儀に太陽暦の日付に
明治5年末を以て旧暦は廃され、明治6年からはいまと同じ太陽暦になった。
そのおり明治天皇の「御誕辰」である「嘉永五年九月二十二日」は太陽暦に直すと「1852年の11月3日」となるので、明治六年以降は11月3日が「天長節」となった。明治44年まで続いた。
太陽暦に律儀に直すところが、いかにも「新しい時代の始まり」らしいところだ。
明治45年7月30日に明治天皇は崩御。大正に改元された。
大正天皇は明治12年(1879年)の8月31日生まれなので、8月31日が新しい天長節となる。
ただ初年は明治帝が亡くなった直後だったので、スルーされた。
大正元年、最初の「天長節」である8月31日の新聞には「今三十一日は畏くも聖上陛下第三十四回の御誕辰に当らせられ、殊に本年は御践祚後第一回の天長の佳節なるが、未だ御大喪中なれば、宮中においても一切、祝賀の式を御差し控えあそばさるることとなれり」とある。
明治大帝の大喪儀(お葬式)は9月13日の予定でその準備が報道され、明治帝を偲ぶ記事も連日大きく掲載され、あまり新帝の天長節を祝う雰囲気ではない。
9月4日になってから、「勅令第十九号」をもって祭日・祝日が新たに制定されている。新しい祝祭日に「七月三十日の明治天皇祭」と「八月三十一日 天長節」が加えられた。
8月31日が過ぎてから制定されたので、大正元年の天長節は存在しなかったことになった。「大喪」の最中だからスルーされたのだろう。
このときの勅令で示された「大祭祝日」は10である。
元始祭 一月三日
新年宴会 一月五日
紀元節 二月十一日
春季皇霊祭 春分の日
神武天皇祭 四月三日
明治天皇祭 七月三十日
天長節 八月三十一日
秋季皇霊祭 秋分の日
神嘗祭 十月十七日
新嘗祭 十一月二十三日
明治の「天長節 十一月三日」と明治の先帝祭「孝明天皇祭 一月三十日」が除かれた。
大正天皇の誕生日は「残暑厳しきころ」
大正時代の「天長節」は、その後、少し変転する。
すでに大正元年の朝日新聞紙面に、時期に対する懸念が書かれていた。
「先帝(明治帝)の御誕辰当日は、菊花の節にしてこのうえなき好時節であったが、今上陛下の御誕辰は残暑厳しきころなれば、毎年、葉山、塩原、日光等の御用邸に避暑あそばされ、青山御所にて祝典をあげさせられたまうことは昨年の一回だけ」とのことで、冷房施設のないこのころ、陛下は(当時は皇太子殿下は)夏はほぼ東京で過ごしていなかったという指摘である。皇居に陛下がおられないのに、天長節のお祝いの会が開けるのだろうか、という疑問が呈されている。
翌年、大正2年の7月、侍医のコメントが載っている。
7月に入り葉山で過ごされている陛下は、7月30日の「先帝祭」には一度、東京に戻られるものの、8月に入ったらすぐに日光へ避暑に出向かれる、そのまま現地に9月半ばまで滞在の予定、というのが侍医のコメントである。だから「8月31日の天長節の祝賀」は9月中旬以降になるべし、との記事が出ている。
7月15日の新聞紙面には、「8月31日の天長節は神殿における祭典は行われるが、内外臣僚を招いての祝宴は秋冷の候まで延期される」と政府が決定したとの記事が出て、その数日あとに、「その祝宴の日付は10月31日」と決定したと載っている。
「大正元年勅令第十九號中『天長節、八月三十一日』の次に左の如く加ふ『天長節祝日 十月三十一日』」
誕生日と誕生パーティ日、どっちも休み
大正天皇「天長節」に加えて「天長節祝日」も制定され、宮内次官の談話として、国民はこの両日ともに「聖寿の無彊を寿ぐため」、国旗を掲揚して奉祝してもらいたい、とコメントしている。
8月31日はお誕生日としてお祝いし、10月31日を「お誕生日祝いする会の日」としてお祝いすることになったのだ。誕生日と誕生パーティ日に分けられ、どっちも休みとなった、ということである。大正年間は「天長節」に関する休日が2回あったのだ。
まあ、冷房のない時代は大変だったということだ。しかも、日本の気候に合っていない「西洋の服装」を正装としているから、盛夏のころはそういう格好で集まるのはやめよう、ということになった。軽装ですますとか、クールビズで集まるというような発想がない。
「儀礼」はそのしきたりを守らなければならないから、格好を変えるのではなく、日付を変えたのである。そういう時代だったのだ。
当の陛下が8月には東京に、つまり皇居におられないのだから、そこでの祝賀会をやりようがないというのがすべてであろう。