頭の良し悪しは、生まれつきだ、と信じる人は多い。こういう人達にとって、教育の目的とは、生徒の能力を引き出してのばす事ではなく、生まれつき高い能力を持った生徒を、選別するためにある。
ご承知の通り、受験勉強の中には、何の役に立つのか不明な知識を、沢山覚え込むような面もある。だが、『頭の良さ=生まれつき』論者は、あまり問題を感じないらしい。「記憶という知的能力を選別する事自体に意義があるのだから、試験で覚える知識が有用かどうかは、副次的な問題」という風に、考えるようだ。
また、この種の論者は、しばしば、「優秀な人は何をやらせても優秀だ」と信じる傾向がある。ということで、受験競争という選別プロセスの中で勝ち残った、優秀な人材は、将来どんな分野のどんな職種に進もうと、つねに上位のポジションを与えるべきだ、という理屈になる。
そういう意味で、こうした信憑を持つ人々は、「教育」というものの効用を、二重に信用していない訳だ。まず、教育では、個人の知的能力(頭の良さ)は向上しない。そして、学校教育で教えたこととは無関係に、社会では(優秀な個人は)自分が学んで勝手に成長していくのだ、と。そして優秀さは、大学入試の合格歴で保証される。これが、昭和時代からわたし達の社会を作ってきた、マジョリティの意見だった。
・・という書きぶりからもお分かりの通り、わたし自身は、頭の良さは生まれつきでほぼ決まる、とは考えてない。まして、有名大学卒の人間なら、皆、有能なはずだ、とも思っていない。つまり、あんまり学歴に信をおいていないのである。人の有能さは、その人が学校を出た後の、生き方に大きく依存している。
以前にも書いたことだが、わたしは、自分の勤務先について、ひとつ自慢していいと思っていることがある。それは、大学を出なくても、社長になれる、という事実である。わたしが入社したときの社長は、高専卒だった。たまたま今の社長も、高専卒である。その間にも、10年ちょっと前だったが、やはり高専卒の社長がおられた。皆、エンジニアだ。
エンジニアというのは、自分の腕前がすべてである。どんな設計を考えたか、どう作ったか、いかに人を動かしたか。それだけで仕事の評価が決まる。出身大学も学位も専攻も、そして性別も国籍も、関係ない。そういうサバサバした世界観のほうが、わたしは気持ちが良い。
まあ、たしかにどの教科もオール5、という生徒は、たまにいる。でも、それは、どの種目も上手にできるスポーツ万能の人や、どんな楽器も器用に演奏するマルチプレイヤーに似て、ちょっと特殊な才能と言えなくもない。むしろ、「一芸に秀でた」人の方が、世の中にはずっと多いのではないか。そして、その一芸を探して見つけることの方が、むしろ社会的資源の観点からいっても、効率的に思われる。
いろんな分野の事を、ムリして学ばせるのは、頭の使い方としてはちょっと、もったいない。
前回の記事「アタマが悪いんじゃない、たぶん頭の使い方が下手なだけ」 (2021-02-14)では、問題解決のために「考える」際に、わたし達がしばしば自分から、上手でない頭の使い方に陥りがちだと書いた。もったいない頭の使い方。それには、いくつかパターンがあるようだ。それはたとえば、こんな事である:
(1) 当人が心配事や不安や怒りの感情にふりまわされている場合
臓器である脳のパフォーマンスには、メンタル面も大いに影響する。メンタルな悩みごとがあると、ちゃんと問題に集中して考えることができず、いつの間にか本来の問題とは別の、自分の悩み事で頭が空回りしていたりする。脳のリソースが、感情系に多く割り当てられるのだろう。だから、考えの筋が弱くなったり、答えの方向性に無理なバイアスがかかったりする。
しかし、たいていの人間は、自分自身が感情に「乗っ取られて」いても、そうとは自覚しないものだ。「考える自分」は、あくまで理性的なつもりで、居続ける。メンタル問題に気づくのはむしろ、はたの人間である。だが、「あんた怒っているね」などと指摘しようものなら(そういう忠告はとても貴重なのだが)、かえって「怒ってなんかいません!」と逆ギレしたりする。
だからこそ、わたしは最近、「感情のマネジメント」が、仕事の問題解決と、考える能力を保つ上で、とても重要だと感じてきているのだ。そして集中して何かを考える前には、たとえば数分間でも瞑想するなり、茶の湯を立てるなり、音楽を聞くなりして、感情の波をしずめる工夫が有用なのだろう。
(2) 「頭が良い自分」を誇示する事自体が、自己目的化している場合
考えることの目的は、問題解決である。しかし人間社会では常に、競争意識が働く。誰が先にそれを考えついたか。誰が口火を切り、あるいは仕上げたか。その功績を自分のものにしたい、と欲するのが、ふつうの人間だ。要するに、問題解決それ自体よりも、「自分は他人より頭が良い」ことを誇示したい、という欲求が先に立つケースである。そして、こういう人は案外多い(わたし自身、しばしばこの罠に落ちる)。
「人よりも頭が良い」ことを誇示する方法はいくつかあるが、一番ポピュラーなのは、「人がまだ知らないことを知っている」である。知識や情報の誇示だ。いろんなことを知っている、博識な人は頭が良い、という世間的な思い込みが、それを支えている(そして受験勉強がそれを強化する)。そういう人は、しばしば「ちなみに・・」とウンチクを傾けるが、問題解決の文脈からは微妙に外れていたりする。
もう一つの方法は、議論で他者を論破することである。解決策を求めて、ブレスト的にあれこれ探っている段階で、それはダメあれは無理、と難癖をつける人も、ときどき見かける。論争というのは交渉と同じで、ある程度の技術・スキルと、結果への執着心が必要である。だから議論を「勝ち負けの場」と見る人は、議論を単なる発想の手段と思う人よりも、たいてい論戦に強い。そして、良い発想の芽を潰してしまう。
なにせ、思考の目的が、いつの間にか、問題解決から自己顕示にすり替わっているのだから、そんな態度から有効性のある解決策が生まれる可能性は低い。だから、こうした状態が生じたら、「あの人はまた有能ゲームをはじめているな」と判断して、皆で目的を再確認する作業が必須である。