
ひとりの女性(結生)の視点を通じて、彼女のいる「こっち側」と、おそらく多くの方が入る「あっち側」を描いた『あっち側の彼女、こっち側の私』を、僕は2時間かからないくらいで読み終えた。そして、読み終えた後、何時間も「こっち側」と「あっち側」の世界について考えている。
母親からの身体的虐待、義父からの(あとから彼女が理解した)性的虐待、非行と薬物、そして数百人の「あっち側」にいるだろう男性と性的関係を持った彼女。児童養護施設や少年院などを経て、現在に至るまでのストーリーは、純粋に「大変な人生がある」では終われない。
彼女の周りに登場するひとたちの存在の大きさが、彼女の成長に沿ってどんどん変化していく。それは母親や義父との関係、少年院の法務教官、弁護士などとのかかわり。そして「あっち側」にいるそれらのひとたちから見た「こっち側」にいる彼女の見え方。
特に、それが性的虐待であることをあとから理解した彼女に植え付けられた価値観は、私たちが考える「それ」が「こっち側」の思考でしかなく、「常識」や「一般論的な正しさ」に触れる言葉が入らない。それは彼女が受け入れないのではなく、そもそも何を言っているのかわからないほど、根底にある経験や価値観がどれほど人生に影響を、物事の見方に影響するのかを痛感する。
たぶん、僕は彼女といま会ったとしても、本書で描かれる背景があるというのはきっと思いもしないだろう。それはとても見えづらく、きっと信頼関係の有無だけでもないだろう。そんな彼女との関係性を作っているフリーライター小坂綾子さんが特別だったのだろうか。
非常に目を奪われたのは、彼女が少年院出院後に1年ほどkるあしていた「カルーナ」施設長の山本知恵さんとのシーンにある。もし、彼女のようなひとから、「夜の仕事がしたい」と性的な接触がある仕事に就きたい相談を受けたら、みなさんはどう反応するだろうか。”一般的”には留めるかもしれない。そして、それなりの理由を彼女に伝えるかもしれない。しかし、山本さんは違った。こんな対応ができるひとがいるというのは、どんな環境にかかわらず、子どもたちにとっても、もちろん大人にとっても、真の意味で「ありがたい」存在だろう。
私たちはメディアを通じて、虐待サバイバーのインタビューなどを読むことがあり、そこに置かれた幼少期を作った大人に嫌悪感を抱くかもしれない。そしてどうしたらよいのか仕組みを考えるようになる。「あっち側」の人間として。
本書では、随所に「こっち側」である彼女の視点、彼女の経験、彼女の思考が「あっち側」であるだろう読み手に伝えられていく。時系列での追体験は、彼女のなかで変化するものと、変化しないもの。なかなか変わることが難しいことがあるのだ。それは「あっち側」にいると彼女は認識するだろう僕には、なかなか理解しづらいものもある。それでも、それは彼女の思考であり、彼女の言葉として受け止めなければならない。
僕のように対人援助の世界にかかわっている方々には「価値観を押し付けない」というのは根底にあるべきものであるが、彼女のなかで育まれた「価値観」は、押し付ける以前に受け止めるのも難しいが、それができない大人は、彼女にとって役に立たないか、特定の意味においてのみ役に立つ存在なのかもしれない。
読みやすい文章なので、比較的早く読めるが、本書の内容、彼女のことについて読後に使う時間は果てしない質量になる。