怒り、悲しみ、憎しみ、怖れ、絶望……。ネガティブな感情にとらわれてしまった時に、どうやって「自己肯定感」を取り戻せばよいのか。新刊『世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義』(新潮選書)を刊行した東京大学大学院の山本芳久教授は「心に自然に浮かんでくるネガティブな感情を否定せず、むしろそれをありのままに深く受け止めることが大事だ」という――。
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Shoko Shimabukuro
「肯定の哲学」とは何か
——山本さんは、東京大学で「哲学」の講義をするさいに、「肯定の哲学」というテーマでお話をすることがあるそうですね。東大生は自己肯定感が強そうですが、そのようなテーマにあらためて関心を持つ学生さんがいるのでしょうか?
東大生だからと言って、必ずしも自己肯定感が強いとは限りません。たしかに自己肯定感が強い学生もいますが、そうでない学生もたくさんいます。
そもそも「肯定の哲学」は、いわゆる自己啓発やコーチングのような内容ではなく、あくまで哲学の授業です。西洋中世の哲学者トマス・アクィナス(1225頃~1274)の主著『神学大全』を丁寧に読み解きます。
——『神学大全』という名前は、どこかで聞いたことがあるような……?
世界史の教科書では、中世ヨーロッパのスコラ哲学を説明するところで、必ず名前が出てきます。もっとも、高校の授業では知識として名前を暗記するだけで、その内容には触れられない場合がほとんどですが。
——そんな昔の本に、自己肯定感を高める方法が書いてあるのですか?
『神学大全』は日本語訳で全45巻もある大著で、さまざまなテーマを扱っています。その第10巻が、人間の感情の動きを詳しく分析する「感情論」となっています。
私の「肯定の哲学」の授業では、この「感情論」の部分をじっくり精読します。感情というものの特徴をつかむことができれば、より肯定的に人生を送れるようになると考えているからです。
「自己肯定感」の罠
——それで自己肯定感を高めるにはどうしたらいいのでしょうか?
ここ十年くらい、「自己肯定感」という言葉が使われることがとても増えました。本屋に行くと、そういう感じのタイトルの本があふれていますし、ネットでもこの言葉が使われることが多いですね。
ちょっと気にかかるのは、それらの自己肯定感をテーマにしている本が、文字通り「自己」を肯定することを強調していることです。
——それではダメなのですか?
ダメというわけではありませんが、すべての人間は、この世界と切り離せない関係のなかで生きています。そうである以上、自己を肯定するということは、自己と切り離せないこの世界をも同時に肯定するということになるはずです。
「この世界にはろくなものが存在しないし、ろくな出来事も起こらないし、周りも虫の好かない人ばかりだけども、自分のことだけはとても好きだ」というようなことはありえないと思うのです。
——でも、自己啓発本には、「この世界はあなたの足を引っ張る連中ばかりだから、人に嫌われることを恐れずに、自分の信じる道を突き進もう」と背中を押してくれる本もあります。
もちろん、そのような本に勇気をもらって、幸せに生きていけるならば、それでもいいのかもしれません。ですが、なんだか、そのようなやり方は、少し窮屈でかたくなな感じがしますね。
トマスの哲学の特徴は、単に「自己」を肯定するだけでなく、いっけん憎しみや悲しみに満ちているように見えるこの世界のなかにも、肯定できる要素が埋もれていることに眼を開かせてくれるところにあります。
人間の感情には「根源的な肯定性」がある
——自己肯定感を扱った本の中には、ネガティブなことを考えてしまう「心のクセ」を矯正しようとするものも多いです。そのためのワークシートが付いている本もあります。
ネガティブなことを考えない訓練をするのも、一つの方法かもしれません。しかし、心に自然に浮かんできてしまう感情を、意志の力によって遮断するということは本当に可能なのでしょうか。
もし可能だとしても、それは自らの自然な感情を否定することですから、結局それでは自己肯定感は得られないのではないかと思います。
——では、どうすればいいのですか。
心に自然に浮かんでくるネガティブな感情を否定せず、むしろそれをありのままに深く受け止めることが、最初の一歩として大事です。トマスの「感情論」によれば、すべての感情には人間をおのずと肯定的な方向へと向かわせる力が潜んでいるからです。
たとえば「喜び」を感じたときは、それを抑制せず、笑ったり、「喜び」を他者と共有したりなど自然な反応をすると、ますます喜びが増幅されます。
——ポジティブな感情ならそれで良いかもしれませんが、ネガティブな感情をありのまま受け止めてはダメなのでは?
一概にそうとは言えないというのがトマスの考え方です。たとえば、「悲しみ」を感じたときは、それを無理に否定せずありのままに受け止めて、思いっきり泣いたり嘆いたりした方が、むしろ悲しみが和らぎますよね。
つまり、ポジティブな感情である「喜び」の場合にも、ネガティブな感情である「悲しみ」の場合にも、生まれてくる感情をありのままに受け止めて自然な反応をすると、おのずと心がより肯定的な方向に向かうようになっているのです。トマスの「感情論」の特徴は、人間の自然な感情を否定せず、むしろそこに「根源的な肯定性」を見いだしているところにあるのです。