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内容(「BOOK」データベースより)
織田信長は版図拡大に伴い、柴田勝家、羽柴秀吉ら有力部将に大幅な権限を与え、前線に送り出した。だが明智光秀の地位はそれらとは一線を画す。一貫して京都とその周辺を任されて安土城の信長から近く、政権の司令塔ともいえる役割を果たした。
検地による領国掌握、軍法の制定などの先進的な施策は、後年の秀吉が発展的に継承している。織田家随一と称されながら、本能寺の変で主君を討ち、山崎合戦で敗れ去った名将の軌跡。
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』も、最終回を迎えました。
新型コロナウイルスの影響などで、収録・放送が中断された時期もあった、『麒麟がくる』なのですが、ドラマとしての見せ場はたくさんあった一方で、明智光秀という人の行動や思想については、かなり自由な発想で描かれています。実際のところ、光秀の生涯、とくに織田家で頭角を現すまでの前半生はほとんどわかっていないのです。
そういう人が織田軍団を支える存在としてのぼりつめたというのも、すごいことですよね。羽柴(豊臣)秀吉の「成りあがり」ほどではないとしても、光秀も異例の出世を遂げた人物であり、そのことについて感謝しているという史料も遺っているのです。
この本、その明智光秀の生涯の「現時点でわかっていること」を信頼できる史料を手掛かりに、まとめたものなんですよ。
どうしても『本能寺の変』ばかりがクローズアップされてしまう明智光秀なのですが、実際はどんな人物で、どのような過程を経て、信長軍団で重要な地位を占めていったのか。
「『本能寺の変』の真相はこうだ!」みたいなセンセーショナルなことは書かれていませんが、だからこそ、この本の記述にはかなり信頼が置けるのではないかと思うのです。
本能寺の変を光秀が起こした「理由」はわからないけれど、あの時代に、信長を討つことができたのは、たぶん、明智光秀だけだったのです。
(足利)義昭政権末期の局面を光秀は冷静に見ていた。特に義昭御所の引き渡し、破却が進んでいた頃、光秀は信長に対して、京都吉田山に「御屋敷」を築くよう勧めている。この山は、京都上京と比叡山山系の間にある神楽岡と呼ばれる比高60メートルの独立丘陵である(比高は山頂と山麓の生活域との標高差)。
前年の元亀三年(1572)5月にも、信長は京都に御屋敷を構築していたが、基本的に信長は京都における居所を明確に定めていなかった。義昭の「京都御城」(義昭御所、『兼見卿記』)が破却になった今、洛中と山中越えの中間にあたる丘陵を、信長の新しい拠点の候補地として挙げたことになる。
今まで戦国時代の将軍の居所は、洛中の御所か、東山と呼ばれる比叡山系の西へ突き出た尾根突端の勝軍山城、中尾城、霊山城(京都市)などに築かれていた。しかし比高差があるため、より洛中に近い中間の丘陵に目がつけられたのである。
史料によると、光秀は、本能寺の変の10年前くらいから、信長の京都での居所が危険であることを指摘しており、築城を再三勧めているのです。
このときも、信長は柴田勝家や羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀などの首脳たちを現地調査に向かわせたそうですが、結果的に「御屋敷には不適」と判断されたのです。
光秀は、ずっと、京都滞在中の信長の防護・警護が薄くなってしまうことを懸念していたのです。結果的に、その認識が、あのとき、光秀を「今がチャンスだ」と駆り立て、『本能寺の変』を起こすことにつながったのかもしれません。
あらためて考えてみると、当時の天下一の権力者に対して、あれほどの手際で抹殺することに成功したのですから、光秀はすごい人物だった、ということなのでしょう。
明智光秀という人は、もともと足利将軍家に近い存在で、織田家と将軍家に並行して仕えていたような時期もあったのですが、その人脈もあってか、中国地方に派遣されていた羽柴秀吉や北陸で戦っていた柴田勝家に対して、ずっと畿内で活動していたのです。信長は、光秀を複雑な政治的な配慮を求められる「中央」を任せられる能吏であるのと同時に、自分を裏切るほどの野心がある人物ではない、とみていたように思われます。