オリンピックに「失言」という競技があったら、私たちの森喜朗さんはアメリカの新大統領であり失言製造機(Gaffe Machine)でもあるバイデンさんと金メダルをめぐって日米決戦になると思うんですよね。

「謝罪会見」に臨んだ森喜朗氏 ©️AFLO
衆議院解散を招いた首相時代のビッグな失言
森喜朗さんと言えば、もう皆さんご存知、2000年から01年まで第85・86代の内閣総理大臣として日本の指導者でありました。森喜朗さんの総理在任の間、国家戦略として策定する「e-Japan構想」についての説明のため官邸に来た総務省の幹部に「君、このイット革命って何だ?」と聞いたという話から、末期には歴代総理はおろか世界の指導者においてもワールドクラスの「内閣支持率8%、不支持率82%」というレジェンド級のレコードを残しています。
私の大好きな森喜朗さんの失言は何と言っても2000年5月15日の「神の国」発言でありまして、国論を二分する大激論となり、結果として翌月に衆議院解散になってしまうほどのビッグな失言となったわけであります。
もっとも、この発言はそもそも神道政治連盟で行われたもので、周りへの配慮として森喜朗さん一流のリップサービスをしたのだろうとは思うのですが、全文を客観的にどう読んでも失言なので救いようがなくて本当に好きでした。
〈「ま、ややもすると政府側、いま私は政府側におるわけでございますが、若干及び腰になることをしっかりと前面に出して、日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をして戴く、その思いでですね、私達が活動して30年になったわけでございます」〉
「やっぱりやりやがったか」という安堵感
そんな森喜朗さんが、東京五輪・パラリンピック組織委員会の会長として評議員会で、日本オリンピック委員会(JOC)の女性理事をめぐる女性蔑視とも取れる発言をして大騒動になったのは非常に自然な話であります。
誰もが「いつかはやるだろうな」と思っていたら「やっぱりやりやがったか」という国民のコンセンサス通りの発言をしたわけでありまして、その発言内容の低俗ぶりに怒りは感じつつも、俺たちの森喜朗は今日も森喜朗であったという水戸黄門が20時40分ごろ印籠を出すような予定調和に安堵するわけであります。ただ、全文を読むと「森喜朗さん、そんな変なことも言ってねえじゃんよ。マスコミの切り取り方次第で悪く読めてしまう典型やね」と思ってしまいます。その脇の甘さこそが、俺たちの森喜朗。
以前から、うっかり本音を言ってしまうから……
たぶん、森喜朗さんにとっては、これは失言なのではなくて、本当に心からそう思っているんですよ。森喜朗さんの、本音なのでしょう。
一部では、83歳という森喜朗さんの年齢をもって「老害」と批判する向きもありますが、前述の通り総理在任中であった20年前からすでに駄目ですので、老害だから駄目という批判には当たらないと菅義偉論法的には申し上げたい次第です。以前からうっかり本音を言ってしまうから駄目だったのであって、歳を取っているから駄目なのではないのです。
「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という短いコメントの中に凝縮された、日本の古き良きアカンことがぐるぐると頭の中を駆けめぐります。もちろん、女性蔑視だと指摘されるのも当然で、日本国内ばかりか、世界中でこの森喜朗発言が世界で報じられるにいたりました。なんでこんな本音を漏らしてしまう正直者の高齢者を、東京オリパラ組織委員会会長という国際的な要職に置いておくのか、理解が不能だというのは一般的な見方だと思うのです。
会議は結論が決まっているのが日本流
しかし、私のような人間にとっては、森喜朗さんが時間のかかる理事会に対して批判がましい表現をしたことのほうが引っかかります。おそらく、会議なんてものはある程度、参加者の意見確認ができて根回しが終わってからやるものだ、結論が決まっていない理事会をやって、時間をかけて議論をするなんてけしからん、と考えていると思うんですよ。
言われてみれば、我が国の政治だけでなく、民間企業においても「会議」という名の連絡会には意思決定する人たちだけでなく、発言権のない多くの人たちが音に反応して横に揺れるフラワーロックよろしく置物のように参列するのが当然で、偉い人が読み上げる決定方針について「その通りでございます」と箔付けをするために開催される儀式になっていることもままあります。それは、みんなその会議に参加して異議なしで進んだのだから、この偉い人の決定で何か起きても偉い人の責任ではなく会議に参加していた全員の問題なのだという権力維持の仕組みと直結しているのもまた日本流ではないかと思います。
だからこそ、偉い人の所定の方針が定まらず、会議の中で議論をしてしまう仕組みなど時間がかかって仕方がないし、思い通りの結論にもならないからしょうもねえよな、というのが俺たちの森喜朗が言いたいことであって、ましてや女性が自由に会議で議論に参加しているなんてどうなんだよという心の叫びなんじゃないかと思うんですよね。
批判を上手く集め、国家級の問題を覆い隠す風情
そして、これらの森喜朗さんのベクトルは、おそらく「さっさと東京オリンピックをやる方向で議論を調整して理事会を進めておいてくれ」であります。分かりやすい。小学生のひらがな練習帳レベルの理解のしやすさです。そこには事態への深慮とか合理性よりも人間関係やメンツを重んじる日本政治のすべてが凝縮されているようにも感じます。
このような森喜朗さんの素敵で正直で素朴な発言が無事問題視された結果、森喜朗さんの辞任問題が持ち上がり、それ以外の政治的な問題が覆い隠され、一時期はコロナ一色であった世間の話題が国民の爆笑をもって「また森喜朗がやりやがった」というパブリックエネミー扱いとして袋叩きになる祭事となります。殺到する菅義偉政権への批判をそらし、国民からは不必要の烙印を押されつつある東京オリンピックを中止・再延期の方向へ向かわせる神の国スイッチを発動させる男、森喜朗さんの面目躍如であります。
やっぱこう、国民から不人気な人たちが批判を上手く集め、そっちに国民やメディアの槍の穂先が向かっているうちに、ひっそりと国家級の問題が覆い隠される風情でもありまして、世の中というのはうまくできているんだなあと感じますね。
東京オリンピックのレガシーとして
しまいには、先般の「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という失言への釈明として森喜朗さんがおっしゃったのは「一般論として、女性の数だけを増やすのは考えものだということが言いたかった」。いや、これは凄いことですよ。恥の上塗りというよりは、恥の厚焼き、あんこ入りであります。なんで会議に女性の数が増えたら考えものなんだよ。さっぱり理解できないのですが、でもこれも本音だと思うんですよね。
一国民として「ほかにまともな大物はいねえのか」という気持ちも抱きしめたうえで、東京オリンピックのレガシーとして森喜朗さんの記憶は長く留めておきたく存じます。
(山本 一郎)