
「一番のお気に入りの手塚作品はどれか」
マンガ好きならこんな話題で盛り上がったことがあるだろう。
『ブラック・ジャック』『火の鳥』『ブッダ』『どろろ』『奇子』『三つ目がとおる』『シュマリ』『ばるぼら』『アドルフに告ぐ』――。
今、本棚に並んでいる作品をざっと挙げただけでも、どれを選ぶか迷う。短編集や『人間ども集まれ!』といった異色作も捨てがたい。少し上の世代なら、『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』を子ども時代の宝物だったと特別視する人もいるだろう。
改めて考えれば、たった1人のマンガ家のベスト作候補がこんなにあること自体が驚くべきことだ。
当コラムの最終回にあたって、この広大な手塚ワールドから無理やり一作を選んでご紹介したい。
取りあげるのは10代の頃から何度も読み返してきた名作『きりひと讃歌』だ。
奇病『モンモウ病』を巡るドラマ
『きりひと讃歌』と出会ったのは高校3年生のときだった。ある日、社会科教師が「手塚治虫の最高傑作は何か」という脱線をはじめ、
「『火の鳥』『ブッダ』あたりが定番だが、私のベストは『きりひと讃歌』だ」
と紹介してくれたのがきっかけだった。
小学校のころから『ブラック・ジャック』を愛読し、近所の図書館にそろっていた『手塚治虫漫画全集』(講談社)でかなりの数の作品を読んではいたが、『きりひと讃歌』は未読だった。
図書館で借りて最初に読んだときの興奮と衝撃は忘れがたい。
『きりひと讃歌』は、それまで読んだマンガや、映画、小説など他分野の作品とは違った形で、私の深い部分を揺さぶった。いくつかのカットは初読で脳裏に焼き付き、再読を重ねた今ではほぼ全編を脳内再生できる。
なぜこの作品にここまで惹きつけられるのか。まず、あらすじを短くまとめておく。
主軸となるのは「モンモウ病」という架空の奇病を巡るミステリーだ。
徳島県の犬神沢村周辺に症例が集中するこの難病は、短期間で骨格が変形して体毛が濃くなり、患者は犬のような容貌に変わってしまう。生肉を激しく求める嗜好の変化も伴い、あたかも人間が獣に変わってしまうような症状をみせる。激しい頭痛が続き、最後には呼吸困難に陥って命を落とす。
主人公の青年医師・小山内桐人は、モンモウ病の研究者であるM大附属病院の竜ヶ浦教授の指示で犬神沢村に赴く。現地調査を続けるうち、小山内自らがモンモウ病を発症する。現地で深い仲になった村人たづを伴った脱出行が不運を呼び寄せ、婚約者の吉永いずみや親友の占部など多様なキャラクターを巻き込みつつ、国境を超えたドラマが展開される。
モンモウ病についての「風土病説vs.伝染病説」の論争と、日本医師会会長の座を狙う竜ヶ浦の策謀が駆動する形でストーリーは進み、「医学や医師のあるべき姿とは」という問いかけが繰り返されるこの作品は一見、社会派医療ドラマといった趣が強い。
「幼いキリスト」のもじり
だが、それは『きりひと讃歌』の魅力の一面でしかない。単なる社会派や医療マンガという切り口で見た場合、私は本作をそれほど高く評価しない。むしろストーリー展開やディテールには粗が目立つ。
たとえば竜ヶ浦の陰謀はリスクとのバランスで動機付けがやや弱いし、婚約者いずみは占部との関係性を含めて不可解かつ不自然な人物造形となっている。モンモウ病を巡るミステリーも、それだけで長編を引っ張れるほどの題材ではない。
そんな粗さを残しつつも、なお『きりひと讃歌』が名作たりえているゆえんは、人間の受難と救済を描く神話的、宗教的な力強い筆致にある。
手塚治虫の公式サイトによれば、小山内桐人は「幼いキリスト」のもじりだという。モンモウ病を患った白人女性ヘレン・フリーズが公開の場に立つシーンで聖書の引用と十字架を運ぶキリストの姿が挿入されるなど、キリスト教的要素が随所でみられる。
受難と救済は『火の鳥』など手塚作品に通底するテーマだ。『きりひと讃歌』の凄みはそこに人間の狂気を触媒として介在させているところにある。
小山内は権力闘争と名誉欲に狂った竜ヶ浦の陰謀で犬神沢村に送り込まれ、「馳走」として客人に生娘を差し出す村の狂った奇習によって妻たづと出会う。それでも心を通わせるようになった2人は、刹那的なならず者の凶行で引き裂かれ、小山内はさらに台湾の富豪たちの常軌を逸した饗宴の見世物にまで身を落とす。その後も人間の欲や偏見による理不尽な運命に苛まれる。
南アフリカの修道女ヘレンは、白人と教会の名誉を守るという歪んだ価値観から、修道院の院長に危うく殺されかける。難を逃れた後には、主治医であり窮地からヘレンを救ったはずの占部の狂気によって、さらに苦難へと追い込まれる。
犬のような姿かたちになったこと、小山内のセリフを借りれば、「人間が犬になりさがった」ことが、周囲の人間の狂気を掻き立て、2人のモンモウ病患者を翻弄する。病そのものよりも、正気を失った人々や社会が、2人を追い詰める。
この構図を裏返せば、病という異物が、人間や社会の病理をあぶりだしていくのだ。
新型コロナウイルスのパンデミックを生きる現在の我々にとって、この「病と人間社会」の倒置した描写は切迫したメッセージになっている。
狂気というファクターから見て、主役級の重要性を持つのが占部だ。長年の友人のフィアンセをレイプし、患者であるヘレンとも強引に関係を持つ占部の言動は異常そのもので、しかもそれを本人も自覚している。
それでいてこの占部は、作中でもっとも強い「実在感」を放つ登場人物でもある。占部が徐々に狂気の度合いを強めていく過程の描写は分厚く、真に迫る見事なものだ。不可解なはずの占部の心理に読み手をシンクロさせる手際には唸るしかない。