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枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会 竹端寛

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■社会を変える前に自分を変える

今回上梓した『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』は、著者である僕にとっても「予想外」の内容となった。僕はこれまで、福祉現場からのソーシャル・アクションに関する研究や実践に関わり続けていたので、その原理と方法論を示したい、と元々考えていた。だが、書き進める中で、「社会を変えたい」というスタンスの中に含まれている誤謬や矛盾に気づいてしまった。社会の「枠組み」を変えようと志すならば、まずはその前に、自分自身の変容という「個性化」が必要不可欠なのである。

社会を変える前に自分を変える。

この言葉が陳腐なフレーズに聞こえるなら、それはあくまでも「他人事」だからである。これを「自分事」として受け止めるならば、このフレーズはとてつもない重さを持って響いてくる。

■「反-対話」の構造

私たちが何気なく口にする「○○が悪い」という表現。これは、まじめに考えてみると、「そう評価・査定する私は悪くない」という査定者の無謬性が潜んでいる。こういう他者への責任の転嫁は「他責的」である。しかも、自分を無意識に大所高所に置き、その高見から相手を糾弾する、という意味で、「反-対話」的な関係である。さらに言えば、「反-対話」的な関係性の中から、その関係性そのものを変容させる論理は出てこない。言うまでもなく、相手との「対話」が出来ていないのだから、いくら相手を説得する論理を美しく仕上げても、相手の納得を導けるはずがない。

その場合、強制代執行や強制排除、あるいは火炎瓶や棍棒を持っての抵抗……などの暴力闘争になりやすい。安保闘争にはじまり、米軍基地問題や原発問題にしても、その賛成と反対の両者が「対話」することなく、お互いを他責的になじっている限り、いつまで経っても泥仕合であり、問題がこじれたまま、放置される。むしろ、その放置された事態を「どうせ」「しかたない」と諦めている「無関心層」も少なくない。

だが、本当に何かを変えたいと願うなら、まずはこの「どうせ」「しかたない」の壁を越える必要がある。無理だ、できっこない、と決めつけている人とも対話をしなければならない。そうなると、「○○が悪い」という「他責的」な立ち位置こそ、もっとも対話を阻害する要因となる。自分は相手と意見を異にしている。それは事実であっても、だから「相手が悪い」とあからさまに決めつけても、何も事態は変わらない。これは、大学という現場で教育をしていても、ひしひしと感じる事実である。

たとえば授業中におしゃべりをしたり、寝ていたり、携帯に夢中だったりする学生がいるとしよう。その際、教員が一番取りやすい反応であり、一見すると最も効果的に思える方法は、「ちゃんと授業を聴かないと単位をあげないよ」と注意や恫喝、宣言をするやり方である。だが、これは教員がつまらない授業をしている、あるいは学生がわからない・とっつきにくい難しい表現を多用している……などの、教員の側の問題を免責した注意・恫喝・宣言ではないだろうか。

「授業に集中できないあなたが悪い」という「○○が悪い」の骨法は、教員自らの変容可能性に蓋をした上で、学生の変容のみを強いる、という意味で、権力関係的であり、かつ「反-対話」的、である。相手が寝たりおしゃべりしたり携帯に夢中である、という形で表現しようとしている、授業に対する(無意識の)抗議や反論等のSOSサインやボディ・ランゲージを無視した振る舞いである。こういう無意識的・非音声言語を無視する教師は、「学ぶ先達」の資格がない。なぜなら、「学び」とは、「自分には知らないことがあることを知る」ことからしか始まらないからである。

■「枠組み外し」とは何か

あなたが書いた本は「福祉社会」の本らしいのに、どうしてそんな対話とか学びの話をしているの? そんな疑問も聞こえてきそうだが、実はちゃんとつながっている。教育と福祉の現場は、「支援」関係が簡単に「支配」関係にすり替わりやすい、という「権力と情報の非対称性」の共通点を抱えている。僕自身は入所施設や精神科病院への「社会的入院・入所」問題を研究してきたが、他国より多すぎる施設や病院構造の問題を分析する中で、この「支援」関係が「支配」関係にすり替わる、という問題をずっと考え続けてきた。

そして、自らの大学教員としての実践に重ね合わせた時、教育を受ける学生や支援が必要な社会的弱者の側ではなく、教員や支援者の側こそ、まず自らの常識や支配的な考えを再考しなければならない、と気づいた。他者を変えたい、と思うなら、その前に、まず自らの「あるべき姿」やその方法論こそ問い直さなければならないのではないか、自らの立ち位置の無謬性の限界に気づき、新たに学び直さなければならないのではないか、と気づいたのである。

この、自らの暗黙の前提を、メルロ=ポンティは「世界の定立」と整理し、それ自身をも眺める営みのことを現象学的還元と名付けている。だが、僕自身は、自らの考え方と人生観を基礎づけている枠組みそのものを疑い、問い直す意味を込めて、「枠組み外し」と名付けた。そして、何かおかしい、社会を変えたい、という問題意識をもつ人は、まずその疑いのまなざしを自らの枠組みにこそ向けなければならないのではないか、と気づき始めた。

自分自身の強固な常識という堅い岩盤を突き崩し、掘り下げ、その下に広がる(枠の外にある)普遍的な世界にアクセスしないと、他者との「対話的関係」は始まらない。「○○が悪い」「そう査定・評価する自分は悪くない」という自らの暗黙の前提を突き破り、その下にある、価値観や思想の異なる相手との共有できる何かを掘り下げない限り、対話的関係は始まらない。これは、世間の常識に対して徹底的に疑いのまなざし持つ、という意味で、「反社会的」であり、自己否定的に見える。だが、その先にしか、社会を変える論理にはたどり着かないのである。

 

■常識を問い直す

僕が関わってきた障害者福祉の領域でも、実際に何かを変えたのは、世間の常識に抗して枠組みを外し、自らの使命を追求する形で個性化を果たした人々だった。

たとえば「ノーマライゼーションの原理」を産みだし、入所施設中心主義の論理を木っ端みじんに打ち砕いたスウェーデン人のベンクト・ニィリエ。彼は、入所施設で障害者を支援することが最高のやり方だ、とされた1960年代から、入所施設が難民収容所と構造的類同性を持っていること、社会から離れた場に隔離収容することが「アブノーマル」であることに気づき始めた。そして、当時の常識に反して、「地域の中で他の人の暮らしと同じような生活環境を整えることこそが支援である」というノーマライゼーションの原理を提唱した。

これは、この当時の「常識」と大きく異なるものであり、その価値観が受け入れられず、自らも関わったスウェーデンでの改革から結果的に追い出される憂き目にもあった。だが、彼の「個性化」の結晶としてのノーマライゼーションの原理は、その後、入所施設中心主義から地域生活支援へのパラダイムシフトをもたらす理論として世界中に伝播し、スウェーデンでの制度改革にも用いられることになった。

あるいは入所施設から飛び出し、健常者中心主義の抑圧性を鋭く追求した、我が国の「青い芝の会」の重度障害者たち。1970年代、重度の障害を持つ子どもの母親が、子どもと無理心中をする事件が多発し、その際、母親の減刑を求める嘆願書や署名活動が広まった。その動きに対して、地域で暮らす重度障害者の当事者組織は、「母よ!殺すな」のメッセージと共に、「減刑反対運動」を繰り広げた。

いくら国の支援体制の不十分さが理由であったとしても、「障害児殺し」が減刑・無罪にされるということは、「障害のある人の価値は低い」と社会が認めることになる。このような健常者中心の考え方、つまりは「かわいそうな障害者に恵んであげる」という支配-被支配の関係に強烈な異議申し立てをし、重度障害を持っている人も、人間として同じ価値がある、ということを強く訴えた。この訴えや運動の中から、障害者の地域自立生活支援の実態が作り上げられてきた。

■「学びの渦」から生まれる創発

国を越え、時代を超え、現場から社会を変えてきた人々に共通するのは、管理・支配的な「反-対話」の論理そのものへの異議申し立てであり、「枠組み外し」だった。利用者の声との「対話」を求める論理とは、現在の支援の論理から見れば至極当たり前の、でもその当時の常識からはずいぶんとかけ離れた、非常識・あるいは「反社会的」とさえ言われかねない問いであった。だが、このような個々人の実存に直結する問いの中からこそ、「反-対話」の枠組みを外す論理が生まれてきた。個々人が抱いてしまった使命を、文字通り命がけで追求するという「個性化」が、結果的に社会を変える原動力につながった。そこには、その問いを抱えた個人の変革が、社会を変える前に存在していた。

僕の本が追いかけ、整理してきたことは、この枠組み外しの論理を明らかにし、その方法論を、先達の実践の分析から導き出す、ということであった。それは「学びの渦」というキーワードとして導かれた。何かがおかしい、と感じた個人が、自らや社会を覆う常識という名の「枠組み」へも疑問を抱き、その枠組みを外す学習プロセスに身を置き始める。その学びは、自らの抱いた使命を徹底的に追求する、という意味での「個性化」に至るプロセスであり、その中から「学びの渦」が産まれる。やがてその渦に共鳴する仲間が生まれ、そこから渦が社会化し始める。

その渦が少しずつ拡大するなかで、「どうせ」「しかたない」とされていた現実の強固な岩盤が、地すべり的に崩落し始め、やがて別の可能世界が開き始める。このプロセスを、福祉現場のリアリティに基づき、描いてきた。そして、書き終わってみると、これは福祉に限定しない、まちづくりや教育、環境保護など様々な社会的課題に対しても応用可能な「渦」なのではないか、と予感している。

僕自身は、自分も知らなかったこと、思いも寄らなかったことが、本の執筆を通じて産まれてきたので、ワクワクしながら本を書き続けた。そして今、このワクワクが、読者である「あなた」に届けばもっと嬉しい、と感じている。よろしければ、あなた自身の「枠組み外しの旅」に、この本と共に、漕ぎ出して頂ければ幸いである。

*この本の「はじめに」と「目次」は、僕のブログでも公開しています。ご関心のある方は、そちらもご覧下さい。

リンク先を見る枠組み外しの旅―― 「個性化」が変える福祉社会 (叢書 魂の脱植民地化 2)

著者:竹端 寛

販売元:青灯社

(2012-10-27)

販売元:Amazon.co.jp

竹端寛(たけばた・ひろし)1975年京都市生まれ。山梨学院大学法学部政治行政学科准教授。専門は障害者福祉政策、福祉社会学。大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。元内閣府障がい者制度改革推進会議総合福祉部会構成員。山梨県障害者自立支援協議会座長。著書に『障害者総合福祉サービス法の展望』(共編著、ミネルヴァ書房、2009年)など。

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