テレビのコメンテーターが、さもさものように自分中心のコメントを発しているが、「あなたにいかほどの見識、能力があるのか」とお尋ねしたい思いだ。
コロナは菅総理が作ったものでもなければ責任でもない。新型コロナ感染症であり、懸命にこの見えざる敵を収束させるために頑張っている最中である。
批判のための批判に報道関係者がよくいう「公正、公平な報道が聞いて呆れる」という声が何件も届いたが、同感である。
毎朝、目を通す朝日新聞の「天声人語」であるが、今日のには驚き、ビックリだった。
冒頭に
「拍子抜けを通り越して、床にへたり込んだ。就任後初となる菅義偉首相の施政方針演説。期待をこめて読んだのにヤマ場の来ない小説、あるいは途中で居眠りを誘われる映画のようだった」とある。
今日の執筆者に言いたい、「あなたは何様か」と。人にはそれぞれ立場があり、それに伴う礼儀、信義がある。
常識という枠も考えず、浅はかな自分の物差しで施政方針演説を断じることを私は厳しく指摘したい。
本会議場で一生懸命に語り掛ける菅総理に、私は緊張感を持って拝聴した。勿論、眠気などあるわけがない。
美辞麗句(びじれいく)や、歴史的偉人の話を出すでもなく
「政権を担って4カ月、直面する困難に立ち向かい、この国を前に進めるために全力で駆け抜けて参りました。そうした中で私が一貫して追い求めてきたものは、国民の皆さんの『安心』そして『希望』です」と最初に決意を述べ、
「『国民のために働く内閣』として全力を尽くして参ります」と結んでいる。菅流の決意と覚悟が出ている。
歴史ある「天声人語」であり、もう少し見識のある書き方、見方がなかったのかと思った次第である。
毎日新聞の「余録」も呆れた。
「施政方針演説ではコロナ対策の最前線に立つと見えを切った首相である。だが新味の乏しい施策を聞けば、人々が今抱いている不安が分かっているのかとかえって不安が増す」とある。そっくり熨斗(のし)を付けてお返ししたい。
この程度の感覚、レベルだから読者離れが進み、販売部数が少なくなっているのではと余計なことかもしれないが言いたい。
「新味の乏しい施策」と言うが、あなたにどんな施策があるのかとお尋ねしたい。ただ言葉遊びでは懲り懲りである。
今日の「余録」の担当者は堂々と名乗って反論してきてほしいものである。お待ちしたい。
東京新聞のコラム「筆洗」でも次のような表現がある。
「おまけにこの方、熱意や心情を言葉に乗せるのが苦手なようで、こちらは眠気と闘うことになる」とあった。
ここまで言うとは東京新聞は頭から反菅の方向、方針であり論外だ。東京新聞も都民の購読者が少ないのも公平でないことが一因であろう。
責任ある地位についた場合、批判は付いて回るし、それが民主主義である。しかし言われなき、かつ、言い過ぎは厳に慎むことも必要である。
誰が何と言おうとこの難局、菅総理は民主的手続きで選ばれたトップリーダーである。自信を持って裂帛(れっぱく)の気合でコロナに立ち向かい、国民の「安心」「希望」と「国民のために働く内閣」の姿を示して戴きたい。