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ヴィトルト・ピレツキ『アウシュヴィッツ潜入記』

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(3)他の記録との比較

 三つ目の読み方として、一つ目と二つ目の裏返しではあるが、他の記録との比較である。それは精神のあり方としても比較したし、また、収容所の客観的な描写としても比較した。

 他のアウシュヴィッツの収容者の記録を読むときに、こうした収容場所、収容時期、「人種」(区分)に注意する必要がある。

 例えば、『アウシュヴィッツは終わらない』(新訳『これが人間か』)を書いたプリーモ・レーヴィはアウシュヴィッツに収容されたのだが、ではピレツキと全く同じかというとそうではない。

 レーヴィはポーランド人ではなくイタリアで抵抗運動をして捕まったユダヤ人である。そして彼はピレツキが脱走した直後の1944年1月に入れ替わりのように入ってくるのである。

 「アウシュヴィッツ」といっても広義にはアウシュヴィッツ収容所が管理する一連の収容所全体を指すこともあるし、狭義には「アウシュヴィッツ収容所」にも第一から第三までまでがある。ピレツキがいたのは第一収容所(中央収容所)だが、レーヴィが入っていたのは第一収容所ではなく、モノヴィッツ(第三収容所)である。

 こうした違いから、記録の客観的記述、そして強制収容所というものへの感じ方が相当隔たりを持ってくることがある。

【改訂完全版】アウシュヴィッツは終わらない これが人間か (朝日選書)

  • 作者:プリーモ・レーヴィ
  • 発売日: 2017/10/10
  • メディア: 単行本

 ぼくは本書を読んでからさしあたりレーヴィの本だけを読み直したのだが、ピレツキの記述と重なることももちろん多い。「回教徒」「カナダ」「組織化(オルグ)」などの言葉はもとより、収容所で起こる事件に対する感じ方についてもだ。

 例えば、労働に全力をあげてはならないこと。

 ピレツキは一輪車を押す際にも筋肉や肺をどう休ませるかを考えてずる賢く手を抜くことを考えねばならないという趣旨のことを書いている(p.37)。

そう、われわれは過酷な選別のプロセスをくぐり抜けているのだ。(同前)

 そうと知らずに全力で真面目に労働してしまうものは選別されてしまう。つまり死ぬ。

 レーヴィの本にも「ヌル・アハーツェン」のエピソードとして似た話が登場する。

 囚人番号018(0=ヌル、18=アハーツェン)。

彼は命令されたら、すべてを実行する。…彼は、完全に消耗する前に働くのをやめるという、荷車引きの馬さえ持っている初歩的なずるさを持ちあわせていない。彼は力の許す限り運び、押し、引く。そして何も言わずに、その濁った悲しげな目を地面から上げもせずに、不意に崩れ落ちる。(レーヴィp.45)

 まるでブラック企業の労働のようだ、とぼくは思う。

 そしてブラック企業で過労死に追い込まれる者も、「ヌル・アハーツェン」のように、「荷車引きの馬さえ持っている初歩的なずるさを持ちあわせていない」として「責められる」のかもしれない。しかし、よく考えればそこはアウシュヴィッツなのである。アウシュヴィッツでそのような労働をさせているという状況を捨象してぼくらは「ヌル・アハーツェン」を「責める」が、それはお門違いなのである。

 アウシュヴィッツは逃れられないが、ブラック企業は逃れられる?

 同じである。

 なぜ「ヌル・アハーツェン」は「荷車引きの馬さえ持っている初歩的なずるさ」を発揮して手を抜かなかったのか? 「ヌル・アハーツェン」が死んだのは「自己責任」なのだ——そういう言い分が成り立ってしまう。

 他方で違いはいろいろある。

 生活状況についての違いは「興味深い」ところではあるが、ここで注目したいのは心持ちである。

 レーヴィにとって収容所とは個々人が生存のために競争し闘争する場所なのである。

ここで生き抜くには、全員が敵、という戦いに、昔から馴れている必要がある(レーヴィp.45)

 そして、ソ連軍が迫り収容所の管理が崩壊し、パンを分かち合うという収容者同士の共同が始まった瞬間にレーヴィは、収容所(ラーゲル)は死んだ、と規定する。

一日前だったら、こうした出来事は考えられなかっただろう。ラーゲルの法とは、「自分のパンを食べよ、そしてできたら、隣人のパンも」であり、感謝の念などはいる余地がなかった体。ラーゲルは死んだ、とはっきり言うことができた。(レーヴィp.198)

 これに対して、同志をつくりその組織化に成功したピレツキにとっては収容所は共同の場である。

ここで生きていく唯一の方法は、友情を結んで協力しながら作業すること……たがいに助け合うことだった。(p.139)

 実際、ピレツキはいつもで同志たちに助けられる。例えば、突然SSがきて病棟ごとごっそりガス室に送られることがあった。ピレツキがチフスにかかって高熱を出した時、ピレツキはその心配をする。しかし、仲間がなんども助けてくれる。

私が衰弱しているあいだ、患者全員がガス室送りにされそうな事態が起きると、友人たちは一度ならず私を屋根裏部屋に運んで隠す準備をしてくれた。(p.259-260)

 ピレツキが有利な仕事につけるようにする手立てをはじめ、この報告書の随所に同志の協力が登場する。

 レーヴィにはそうした条件がなかったのかもしれないが、共同を目的意識的に追求しているピレツキにとって、収容所という地獄さえも、違って見えたのではないかと想像する。前述の通り、ピレツキが収容所に「幸福感」を覚えたのは、自己洗脳ではなく、強力な外的圧力によってポーランド人たちが愛国的団結をする可能性があるからなのだ。

 ポーランド人たちを和解させるためには、連日のようにポーランド人の死体の山を見せなければならなかった。現実世界でのたがいのあいだにあった相違や敵意の向こうには、さらに大きな現実があるのだと悟らせる必要があった。すなわち、合意を形成し、共通の敵に対抗する共同戦線を組むことだ。そのような敵は常に相当数いた。

 そのため収容所では当時もそれ以前も、合意と共同戦線のチャンスは常にあった。(p.162)

  外の世界では、〔左派の〕ドゥボイスが喜びとともに〔右派の〕リバルスキの言葉に耳を傾け、おたがいに温かい握手を交わせただろうか?

 ポーランドでは、そのような合意の光景はどれほど感動的か? そしてどれほど困難か?

 だが、ここアウシュヴィッツではのわれわれの部屋では、双方が進んで話をした。

 なんという変わりようだ!(p.174)

 ピレツキの動機は愛国主義であり、そのための共同である。

 彼がこの共同を必死で追い求め、それがまさに(死体の山がすぐそこにある)収容所だからこそ可能だったのであり、だとすればピレツキがここに入りたがったことも理解できるし、「幸福感」を抱いたというのもわかるのである。

 ナチという強大な敵と闘うために共同をつくりだすことは政治的に正しい。正しい目的を持った人間の共同は、人間を強くするということではないか

スターリン体制ともたたかう

 他にも個々に論じたいことはたくさんあるが、きりがないのでこれくらいで。

 最後に、ピレツキのその後であるが、戦後ソ連の力でスターリン主義的な政権ができ、ピレツキは再投獄されて死刑にされる。逮捕されポーランドの秘密警察から拷問を受けるが、ピレツキは当時面会した親族に次のように語っている。

ソ連式の訓練をうけたポーランド人にうけた仕打ちに比べれば、アウシュヴィッツは子供の遊び(igraszka)だったと語っている。(liv)

 ナチとたたかい、スターリン体制とたたかったピレツキの生きざまは、左翼のぼくの「憧れ」である。

*1:本書の中には解説を含めこれ以上詳しい経緯がない。誰の指令なのかという点がぼんやりしている。裏表紙には「当時ロンドンのポーランド亡命政府は、新設のこの収容所の目的を探っていた。志願したピレツキの主な任務は…」という記述がある。

*2:クランケンマンは前述の整列を乱した者を馬乗りになって殺した班長だが、ナチ(SS)は「クランケンマンに復讐しても罰を与えない」としたために、クランケンマンは囚人たちに殺されてしまう。ナチは自らの手を汚さずに始末したのである。

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