2021年の箱根駅伝は駒澤大が最終10区で3分以上のタイム差を大逆転して総合優勝した。元箱根ランナーでスポーツライターの酒井政人さんは「大八木弘明監督(62)は、箱根を含む学生3大駅伝で同大を最多23回の優勝に導いたカリスマ的名将。高校時代は無名の選手でも一流に育て上げる手腕に定評がある」と指摘する。どのように選手の心にスイッチを入れたのか、奇跡の舞台裏をリポートしよう——。

13年ぶり7度目の総合優勝を果たし、記者会見する駒大の大八木弘明監督=2021年1月3日、東京都千代田区 - 写真=時事通信フォト
全国から高校生が指導を仰ぎにくる「行列のできる駅伝監督」
2021年の箱根駅伝は最終10区でドラマチックな大逆転劇が待っていた。
9区を終えてトップの創価大と2位の駒大は3分19秒差。明らかにセーフティーリードといえるものだった。しかし、駒大は“奇跡”を演じた。いったい何が起きたのか。
筆者は、かつて学生時代(東京農大)に箱根駅伝10区を走ったことがある。そのときの“恐怖体験”を久しぶりに思い出した。
当時はシード権が9位以内(現在は10位以内、次回大会を予選大会なしで本選出場できる)で、1年生だった筆者にタスキが渡ったのは8位。9位の大学とは2分47秒差、10位の大学とは5分19秒差がついていた。このとき思ったのは「大ブレーキさえしなければシード権は確保できる」というものだった。当時は給水もなく、走る選手の後を追う運営管理車に監督も同乗していなかった。小旗を振る音と、沿道の大歓声が終始響いていた。
ブレーキさえしなければ大丈夫、と自分に言い聞かせたが、何度か意識がなくなりかけた。
終盤は幾度も後ろを確認した記憶がある。汗の染み込んだタスキがとにかく重かった。設定より1分40秒ほど悪いタイムながら、総合8位でゴールに飛び込んだときは安堵した。区間最下位のタイムを覚悟したが、区間13位。自分よりも遅かった選手がふたりもいたことに少し驚いた。それくらい10区はブレーキの多い区間なのだ。
箱根駅伝最終10区、創価大が3分以上のリードを守れなかったワケ
このときシード権争いの9位と10位では2分32秒差の大逆転が起きている。
だから、今回の創価大のアンカーを務めた小野寺勇樹(3年)の“感覚”が少し理解できる。榎木和貴監督によると小野寺は体調の問題もなく、「2分あれば逃げ切れるかな」と思っていたという。しかし、セーフティーリードを守るどころか、1分近くの差をつけられて2位でゴールすることになる。
「小野寺は13~14kmぐらいから動きが鈍ってきた感じがあったんです。あと10km近くありましたが、まだ2分近い差があったので、なんとかなるだろうと思っていました。ただ優勝のプレッシャーが影響して、予想以上に消耗していたのかもしれません」(榎木監督)
創価大は今回が4回目の本選出場で、箱根と並ぶ大学駅伝の主要大会である「出雲」と「全日本」の出場はない。チームとしての“経験値”が乏しかった。加えて、小野寺は今回が学生駅伝初出場。10区は向かい風になり、直射日光も強かった。しかも、ずっと1位をひた走り優勝して当然といえる雰囲気のなかで“未経験者”がまともに走るのは難しかったといえるだろう。走力の問題ではなく、過度な緊張によるメンタル面が急失速の原因だった。
創価大の背中が見えてきた「区間賞と優勝の2つを狙っていけ!」
一方、追いかける駒大・大八木弘明監督も10区で“大逆転”が起きるとは想像していなかった。では、「大逆転を可能にした男」は何が違ったのか。

写真=時事通信フォト
大逆転を演じヒーローになった石川拓慎(3年)は前年も10区を経験している。その時は東洋大をかわして8位でゴールしているが、早大に1秒差で競り負けている。「絶対に前回の悔しさを晴らしてやる」と気合は十分だった。大八木監督も「石川は『区間賞を狙いに行け』と言ったら、本当に狙いに行ってくれたんです」と話している。
リードを死守しなければいけない、というネガティブな気持ちが大きかった小野田とは対照的に、石川は「区間賞」というポジティブな目標があった。
意外に思われるかもしれないが、大八木監督は10区石川に“逆転V”を託していたわけではなかった。「3分19秒離されていたので、2番確保かなという思いがありました」とイチかバチかの走りではなく、石川の力を100%発揮できるところに狙いを定めていた。それがじわじわと効いてくることになる。
20km地点、「男だろ!」という監督の声が届いて、スイッチが入った
両者の差は蒲田(10区5.9km地点)で2分45秒に縮まり、新八ツ山橋(同13.3km地点)では1分57秒とさらに縮まった。石川はここまで区間トップでひた走る。新八ツ山橋から小野寺のペースが急激に鈍りだし、15kmを過ぎて大八木監督が乗る運営管理車からも創価大の背中が見えてきた。そこからは「区間賞と優勝の2つを狙っていけ!」と大八木監督の声が飛ぶようになる。
「15km地点の給水をもらったとき、いつもならきつくなるのに身体が動いていたんです。これなら逆転の可能性があるかなと思っていました。20kmくらいですかね。監督の『男だろ!』という声が届いて、自分のなかでスイッチが入ったんです」
箱根路に幾度も響いた大八木監督の「男だろ!」の檄が石川の身体を突き動かした。鶴見中継所で3分19秒あったビハインド。石川は狙い通りの区間賞を獲得したことで、ミラクルVまで手に入れたのだ。
なぜ、「出来の悪い」3年生の選手をアンカーに起用したのか
箱根駅伝96回の歴史で最終10区での首位交代は過去8回ある。最後に“逆転負け”を経験しているのが駒大だった。第77回大会(01年)で順大に17秒差を逆転されている。しかしその後、悔しさをバネに箱根駅伝4連覇(02~05年)を達成。学生3大駅伝では最多23回の優勝(出雲3回、全日本13回、箱根7回)を積み重ねてきた。
そのすべてで指揮を執ってきたのが大八木監督だ。

13年ぶり7度目の総合優勝を果たし、記者会見する駒大の大八木弘明監督=2021年1月3日、東京都千代田区 - 写真=時事通信フォト
今季は全日本を6年ぶりに制すと、箱根は13年ぶりの優勝。「駅伝2冠」に輝いた。今大会は青学大、東海大、駒大が3強と呼ばれており、名将は、優勝争いが最後の最後までもつれることも想定してアンカーに石川の起用を決めたという。
「チーム内に競争心が湧いていたなかで、この1カ月くらいは石川に男気があったんです。昨年も10区を走っていますし、7区や9区も考えていたんですけど、最終的に10区の起用を決めました。昨年は競り合いに負けましたが、今回はリベンジしてくれるんじゃないかなと思っていたんです。それに今回は3年生に助けられた感じがしますね」