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「緊急事態宣言でさえ刺さらない」リーダーの言葉が国民の感情を逆なでする本当の理由

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なぜ政治家・リーダーたちの言葉は国民の心に刺さらないのか。それどころか、上からの目線の発言になってむしろ激しい怒りを買ってしまうのか。『人望力』(致知出版社)を上梓した作家・歴史研究家の瀧澤中氏は、「誰でも人の心に響く言葉を発することはできる」、ただし、「人望力があれば」と語り、日本の現在のリーダーたちに欠落した【3つの必要】を指摘する。

新型コロナ感染症 緊急事態宣言を再発出/スクを着用した通行人は、ビルの大型スクリーンに映し出された菅義偉首相の生中継を見ている=2021年1月7日
新型コロナウイルス感染症 緊急事態宣言を再発出。マスクを着用した通行人たちは、足を止めビルの大型スクリーンに映し出された菅義偉首相の生中継を見つめていた=2021年1月7日 - 写真=ロイター/アフロ

「緊急事態宣言」の視線

「緊急事態宣言を決断致しました」

この言葉を口にしたとき、菅義偉首相の視線は下のペーパーに向いていた。政治家、それも内閣総理大臣の決断は重い。なによりそのことを知っているからこそ、菅氏は正確を期すためにペーパーを読み続けたのであろう。

だが、質問時間を入れて50分余の中でこの瞬間こそ、視線を上に、国民に語りかけるべきではなかったか。そしてこの決断に至った経緯ではなく、決断した首相の心を国民に伝えるべきではなかったか。懸命な努力を信じないわけではない。しかしそれが国民に伝わるのかどうかという点で、疑問を持たざるを得ない。

同じメッセージを別の人物、たとえば事務方トップの官房副長官が読んだとして、何か不都合が生じたであろうか。

首相が緊急事態を宣言する。そこには、協力的ではなかった自治体への泣き言や、自身の行動を棚に上げたかのように見える若者への注意ではなく、大きく国民を包容し安心感を与え、しかも決然と自身の犠牲を顧みない姿勢があるべきではなかったか。

以下、最近の政権や政治家が発する言葉がなぜか頭に入ってこない、“つるっと滑っていく”理由と、そうならないために必要なことについて考えてみたい。

菅内閣の弱点

昨年末。菅義偉首相が、大人数での会食をしないよう国民に「お願い」しながら、自ら宴席に顔を出し、その後謝罪したことが大きく報道された。

私はこの出来事を知ったとき、だれも首相に「短時間でも今はおやめになった方がよいのでは」と言わなかったのか、と、そのことに驚いた。

「首相動静」を見ると、菅氏はよく議員会館の自分の事務所に立ち寄るが、歴代首相は首相現役時、これほど頻繁に事務所に顔を出していなかった気がする。杞憂(きゆう)であってほしいが、もしかしたら「なんでも自分が決める」マイクロマネージメントのために、周囲が思考停止に陥ってはいまいかと、危惧する。

いずれにしても、「どう見られるか」という視点を、首相も側近も考えが及ばないところにこの内閣の弱点が見える。

「正確にしゃべろう」という落とし穴

もう1つ、危惧すべきことがある。

内閣支持率はだいたい発足時が高く、その後下がっていく。それにしても、内閣発足時からわずか3カ月の間に、各種世論調査で20%前後も支持率が下落するのはあまりにも早い。

瀧澤中『人望力』(致知出版社)

瀧澤中『人望力』(致知出版社)

個々に見ればコロナ対策の不十分さ、与党議員の贈収賄事件などが挙げられようが、一因として政治家、とくに首相はじめ政権上層部の発する言葉の使い方が時おり指摘される。

もっとわかりやすく言えば、彼らの言葉が心に響かない、ということである。

首相がペーパーを見、顔を上げ、またペーパーを見、を繰り返すのは、より正しく発言しようとする思いからであろう。多忙な首相が専門用語や数字をまるごと覚えるのは至難である。

とはいうものの、官僚がつくったペーパー(むろん首相は事前に手を加えるが)を読むだけならば政府広報で十分である。なぜ指導者が自ら発表する必要があるのか、という点を考えなければならない。

「わたし」という言葉を全部取って、「われわれ」に入れ替えよう

アメリカ大統領のスピーチライターは、その地位が高い。時には大統領とサシでスピーチを練る。

彼らが言葉を大切にするのは、それが指導者の意思を伝える機会だからではなく、指導者自身がどう感じているのか、言い換えれば指導者の“心”を伝えるためだからである。

ただ中身を伝えるだけなら、官僚がつくった文章は完璧に近い。それは官僚がそういう役割だからである。他方、指導者は物事の中身を伝えるだけではなく、真意を伝えねばならない。もっとわかりやすく言えば、国民に協力してもらうために、国民の心に訴えるのである。

ジョン・F・ケネディはこの点、きわめてすぐれた政治家であった。彼はのちに有名になる大統領就任演説の草稿を練っていたとき、スタッフにこう言った。

「“わたし”という言葉を全部取って、“われわれ”に入れ替えよう」

ケネディの言う“われわれ”は、日本の政治家がよく使う“われわれ”とは意味が違う。ケネディの“われわれ”は、政権にいる者のことではない。国民全員を指している。

ジョン・F・ケネディがデザインされた米国の50セント硬貨
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ilbusca

わたしどもがやります、ではなく、一緒にやりましょう、と国民に呼びかけたのである。

これはひじょうに象徴的であった。ケネディは「お勉強ができるタイプ」ではなかった。学生時代の成績はだいたい中の上。しかし、ケネディ政権はきわめて頭脳明晰・優秀な人材の集まりで、ケネディは自分の脳(ブレーン)の足りない部分を、外部の脳、つまりブレーンで補ったのである。

彼は、人々を集め、人々を鼓舞する能力に秀でていたのである。

言葉が届くかどうかは「人望」次第

ここで、想像していただきたい。もしケネディと同じ言葉を別の政治家がしゃべったとして、はたしてそれが国民の心に届いたであろうか。

私たちは日常生活で、同じ言葉で頼まれても、すすんで行動する場合とそうでない場合がある。言葉を発する相手によって、たとえ正しいことを言われても受け入れられないときがある。

ここに、「人望」が大きく影響している。

人望があるといわれる人物の言葉は、素直に受け取ることができる。心に響かないのは、相手に人望がない、あるいは、人望がないような振る舞いをしている場合である。

そこで「人望力」をキーワードに、言葉が心に響くための【3つの必要】を述べていきたい。

言葉が心に響くための第一の必要:「言行一致」

第一は、言行一致である。

菅首相の会食問題はまさにこれだが、同じ首相でもこんな人物がいた。池田勇人。

首相在任中のこと。全国遊説の帰途に気分転換で、「東京に帰ったら、待合に行きたいのだがなぁ」と秘書に漏らした。待合というのは、貸席のいわば料亭のようなところ。

「いいじゃないですか」

「そうか、じゃ、行くか」

10分ほど車を走らせたところで池田は、「やっぱり、よそう」と言い出した。池田は内閣発足時、「一般の国民が行かないゴルフや待合には行かない」と記者会見で発言していた。それを思い出したのである。けっきょく池田は首相在任中、一度もゴルフや待合に行かなかった。

あるいは。

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