- 2021年01月06日 15:37 (配信日時 01月06日 09:15)
「和菓子はすべて独学」1日3000個売れる"カラフルおはぎ"が大阪で誕生するまで
1/2大阪の「森のおはぎ」は最大で1日3000個のおはぎを売る人気店だ。店主は大阪芸術大学を卒業後、服飾デザイナーをしていたが、ふとしたきっかけから、おはぎ作りを始めた。フリーライターの川内イオ氏は「独学から生まれたのは、小ぶりで品のある、カラフルなおはぎ。これが道行く人たちの心をとらえた」という――。
※本稿は、川内イオ『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。
行列のできるおはぎの店
大勢の人でにぎわう大阪駅から阪急電鉄宝塚線に乗り、25分。
岡町駅で降りると、そこにはのんびりとした空気が流れていた。駅前から豊中市役所まで続く、昔ながらの雰囲気の桜塚商店街。地方では閉店したお店ばかりのシャッター商店街が拡がっているけど、ここは小さなお店が肩を寄せ合い、地域の生活の場として息づいていた。
大阪府豊中市の桜塚商店街 - 撮影=川内イオ
目的地は、商店街の一角に小さなお店を構える森のおはぎ。
ある日、たまたま手に取った『週刊文春』に「おはぎ春の陣」という特集ページがあり、いくつかのおはぎやさんが取り上げられていた。そのなかで、ひとめ惚れしたのが森のおはぎだった。小ぶりで品のある、カラフルなおはぎに惹きつけられた。
子どもの頃から今に至るまで、いわゆる普通のあんこと黄な粉のおはぎしか食べたことのない僕には、どんな味がするのか見当もつかなかった。
気になってググってみると、関西ではさまざまなメディアでたびたび取り上げられている行列のできる人気店で、豊中市にある本店のほか、関西一の歓楽街とも称される大阪の北新地にもお店を出していた。しかも、ひとりの女性が独学で始めたとある。
おはぎに行列⁉
北新地にも進出⁉
ますます興味が募った僕は、その女性、森百合子さんの話が聞きたくて、某日、大阪に向かったのだった。
その日は夏のような日差しで、商店街のアーケードを抜けると、気持ちのいい青空が広がっていた。スマホのマップを見ながら森のおはぎの店を探す僕のすぐ横を、ランニングシャツ姿のおじいちゃんが自転車で走り抜けていった。
訪問したのは月曜日で、森のおはぎの定休日。
森さんはお店の工房で、スタッフの皆さんとおはぎをつくっていた。
こんにちは! と挨拶をかわし、すぐ隣りのカフェへ。
白い割烹着のままの森さんに、「今も現場でおはぎをつくっているんですね」と尋ねると、「はい、そうです」とニッコリ微笑んだ。
割烹着姿の森百合子さん - 撮影=川内イオ
大阪芸大卒・元デザイナーの女性店主
1979年、大阪で生まれた森さんは、父親の仕事の都合で小学生の頃、奈良市に移った。父親は建築関係で、建物の設計やプロデュースをしていたそうだ。母親は同じ会社で、建築物のパース(完成予想図)を描いていた。
森さんは長女で弟がふたり。家族で映画『ネバーエンディングストーリー』を観に行った後、みんなでカレンダーの裏側に自分が一番印象的だったシーンを描いた思い出があるという。家族でサーカスを観に行った時にも、同じようにカレンダーの裏に絵を描いた。
森さん自身は「絵を描くのが好き」「モノづくりが好き」という感覚がないまま高校生になったが、進路を決める時に母親から「絵、描くの好きなんやから芸術系に行ってみたら?」と勧められた。
「森のおはぎ」の看板(撮影=川内イオ)
それで、なんとなく芸術系の大学に進むための専門学校に通い始めると、あっという間に絵を描く楽しさに夢中になった。さすが、母親は娘のことをよく理解していたのだろう。
1998年、大阪芸術大学に入学。自宅から電車通学しながら、工芸科でテキスタイルデザインを学んだ。生地を染色したり、生地のデザインをしたり、繊維を使って立体的なオブジェをつくるような学科だ。
実はこの学生時代、おはぎづくりにつながるような経験をしていたが、それは学校ではなく、アルバイトしていた喫茶店の厨房だった。そこは和菓子と洋菓子、軽食まで出すお店で、森さんは4年間、厨房で寒天からあんみつをつくったり、シュークリームの生地を焼いたり、カスタードクリームを炊いたりしていた。
アルバイト先でお菓子づくりに熱中
そこである日、「同じ材料を使っているのにつくり手によってカスタードの味がぜんぜん違う」ことに気づいた。
クリーミーで甘さあっさりのものもあれば、固くて絞り袋に入れても出てこないもの、口のなかでべたーっとして甘ったるくなるものもある。なぜそうなるのか、どうやればおいしくつくれるのか、バイトながらも熱心に試行錯誤した。
「火加減が一番大事やったんかなあ。強火で炊くのが大事で、しっかり素早く混ぜるとクリーミーで甘さあっさりになるんです。そこで混ぜる手が追い付かないからといって弱火にすると、もたーっとする。人によってぜんぜん仕上がりが違うから、そのうち、クリームを舐めただけで、これは宮本さんのや、これは鈴木さんのやとわかるようになりました(笑)。自分が担当してうまく炊けた日には、大学の友達に『今日はおいしいカスタード炊けたわ』って報告してたみたいですね」
そのこだわりはおいしくつくるだけにとどまらず、盛り付けにしても、できる限りおいしそうに、かわいらしく見えるように気を使った。大学4年生の頃には最古参のアルバイトになっていたので、雑につくったり、適当に盛り付ける後輩にはしっかりと指導した。
「自分なりにすごくこだわり持ってつくってたんで、4年間、楽しかったですね」
「森のおはぎ」で売っているかわいらしいおはぎ - 撮影=川内イオ
大きな会社で働いて感じた疑問
ここまで真剣にお菓子づくりと向き合っていた森さんだが、「仕事にしよう」という感覚はなかったという。
特にこれがしたいという希望もないまま、周囲に流されるように就職活動を始めて、京都の寝具メーカーを受けたらたまたま採用されたので、就職。大阪の本町にデザイン室があり、テキスタイルデザイナーとして、そこで寝具の生地のデザインを考えたり、ベビー布団の柄を描く仕事をしていた。
この会社を5年で辞めることになったのは、いくつかの事情があった。
まず、繊維業界が不況になり、本町のデザイン室を京都の本社に集約することになったこと。自宅から京都に通うのは遠かったし、それなら京都に住もうという気持ちも湧かなかった。
自分の仕事を「歯車の一部」と感じるようにもなっていた。
会議で決まった内容を、その通りにデザインする。そこには創造力を発揮したり、工夫を凝らしたりする余白がなく、お客さんの顔も見えない。次第に「これって、お客さんが本当に喜んでくれてんのかな」という疑問が募っていた。
とはいえ、イチ社員にはどうすることもできないというもどかしさを感じていた。
その頃、同じくデザイナーをしていた彼と結婚したことが最後の決め手となり、退職を決意。2007年、28歳の時に大阪の岡町で新生活をスタートした。
そうだ、私はおはぎが大好きだったんだ
岡町に引っ越した後は、同じ繊維業界で週3日のパートタイムの仕事を始めた。
寝具メーカーから染色の依頼を請けて、適切な色を指定し、染色工場にオーダーするという会社で、働いていた寝具メーカーと一緒に仕事をすることもあったそうだ。
ところが、やはり繊維不況で週3日の仕事が週2日に減り、手持ち無沙汰に。そこで夫に「なんかできることないかな?」と相談したところ、話の流れでこう言われた。
「アルバイトとかではなく、パティシエとか自分でなにかしてみたら?」
パティシエ……確かに、アルバイト時代はお菓子づくりが楽しかった。「それならマカロンはどう?」と尋ねたら、首を横に振られた。
これはどう? あれはどう? といくつかアイデアを出しても、バッサリと切り捨てられる。当時、企画の仕事に携わっていた夫は、森さんの案にも妥協がなかった。
うーん、どうしたものか。ふと、仕事帰りにいつも、おはぎとわらび餅を買って食べていることを思い出した。夏の間はわらび餅、春秋冬は黄な粉のおはぎ。特にシーズンが長いおはぎは、どこのおはぎがおいしいか、いろいろなお店を巡っては食べ比べしていた。そうだ、私はおはぎが大好きだったんだ。
森さんが作る、色鮮やかなおはぎ - 撮影=川内イオ
「おはぎやさんってどうかな? 自分が食べてて体に優しかったら嬉しいし、雑穀を使ったおはぎって良さそうじゃない?」
それまで、なにを言ってもピンとこなそうだった夫が、少し驚いた様子で言った。
「おはぎ、いけるんちゃう? もう明日からあんこ炊き!」
独学で始めたおはぎ作り
翌日、森さんは書店に走って料理本、レシピ本を何冊も購入した。実は、一度もあんこを炊いたことがなかったのである。その日から、毎日あんこを炊く日々が始まった。
それから、友人や知人、初めて出会う人にも「私、おはぎやさんするのが夢やねん」と伝えるようになった。それは、森さんの人生において、とても大きな変化だった。
「子どもの頃から、これがしたいっていうものがあまりなくて。基本的に流れに身を任せてる感じだったから、これがやりたいっていうものがある人とか、しっかりと自分を持っている人をみると、すごいな、羨ましいなと思ってたんですよね」
自分でも驚くほどはっきりと自覚した、「おはぎやさんをやりたい」という意志。この気持ちを大切にするためにも、恥ずかしがったり、躊躇したりすることなく、言葉に出すようにした。
するとある日、友人の知り合いで初めて会ったばかりの人から「イベントみたいな感じでおはぎ売ってみたら?」と言われた。
以前の森さんなら「やってみようかな」「やってみたいですね」と曖昧に答えていたかもしれないが、その時は「やります!」と即答。すると、とんとん拍子で心斎橋のカフェでイベントを開催することに決まった。
納得がいくまで試行錯誤を重ねる日々
スピーディーな展開に舞い上がった森さんだが、すぐに我に返った。
世の中に溢れているあんこと黄な粉のおはぎのイベントをしても、誰が食べに来てくれる? 食べたことない、見たことないおはぎをつくらなきゃ、誰も来てくれへん。帰宅した森さんは、それから思いつく限りのおはぎの案を書きだし、試作を始めた。
頭のなかであれこれ考える前に、手を動かした。見た目の目新しさだけじゃなく、あんこの味も研究を重ねた。
例えば、おはぎはあんこともち米にかなりの砂糖を入れるのだが、それはあんこを日持ちさせるため、もち米の柔らかさを保つためという理由がある。そういうつくり手側の都合ではなく、素材の風味や香りがいきる、自分がおいしいと納得できる甘さを出すために、試行錯誤した。
おはぎのもち米部分 - 撮影=川内イオ
もち米をあんこで包む - 撮影=川内イオ
たくさんの人に来てもらいたいからと、夫婦でイベント告知のハガキ(DM)もデザイン。自分がいつも通っているショップに「私、おはぎのイベントしようと思ってて、DMを置かせてもらえませんか?」と訪ね歩いた。
イベントと路上販売で大人気に
2009年12月、初めてのイベント。自分で食べても「おいしい」と自信を持って提供できるおはぎを用意した。
定番のあんこと黄な粉に加えて、みたらし、くるみ、ほうじ茶など新作を加えた計8種類。どれもひとつ百数十円。雑穀を使い、甘さは控えめにして、彩りを鮮やかに。女性でも食べやすいようにと、赤ちゃんのこぶしほどの大きさにまとめた。
赤ちゃんのこぶし大の丸いおはぎ - 撮影=川内イオ
オープンと同時に友人、知人、たくさんの人が来て、200個用意したおはぎが見事に完売。そのうえ、DMを置かせてもらったお店の店員さんが森さんのおはぎを一瞬で気に入り、天神橋にあるカフェでイベントをしませんか? と誘われた。
もちろん、返事は「やります!」。
年が明けて1月31日に天神橋で開催されたイベントも、大盛況。320個のおはぎと、小さなどら焼き50個が売り切れた。この時もDMをつくり、それを置かせてもらったショップのスタッフさんが買いに来てくれた。
そこで今度は、神戸でアクセサリーを販売しているショップの店員さんから、「年に2回、マルシェやってるんですけど、出店してもらえませんか?」と声をかけられた。
まさに、数珠つなぎ。しかも、森さんはそのショップのアクセサリーが大好きで、結婚指輪もそこでつくったものだ。
そこのマルシェに出店できることが嬉しくて、新しいDMを持って夫婦で挨拶に行った。その時、もともと顔見知りだったショップの社長が、DMを眺めながらこう言った。
「目をつぶったらお店が見えるから、早くオープンしたほうがいいよ」
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