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沖縄移住後にまさかの子宮頸がん告知… 長い長い闘病生活を経て私が願うこと- 村田羽純

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村田羽純

2018年9月、当時33歳の私は沖縄にいた。それまで勤めていた会社にも長年住んでいた東京にも未練がなくなり、元々大好きだった沖縄へ単身移住していたのだ。

毎日くたくたになるまで働いていた日々、都会の雑踏からようやく抜け出して、広い空、青い海、ギラギラの太陽の下で「あー、わたし生きてる!!」と、心から実感していた矢先だった。

私は子宮頸がんの告知を受けた。

東京のOL生活から沖縄での移住生活へ

千葉の田舎で育った私は地元を出たい気持ちが強く、高校3年からは家を出て毎日バイトに明け暮れながら都内に住んでいた。社会人になってからは大企業をいくつか転々としながら1日の半分を仕事に費やす日々を送っていた。それなりにプライベートは充実していたし都会のOL生活も謳歌していた。

それでも忙しい日々を送っているとストレスは溜まっていくわけで、余裕がないせいで人に優しくできなくなっていく自分に嫌気がさしていった。そしてある日、このままじゃ自分がダメになってしまうと思い、環境を変えるために17年の夏、沖縄へと飛んだのだ。


元々、何か気になることがあればすぐにレディースクリニックに行くくらい、婦人科系の病気には気を使っていた。健康志向だし、生活習慣だってそんなに悪くなかったと思う。東京にいて息もできないほど仕事に追われていた時期は体調を崩しやすいこともあったけど、基本的には健康体だった。

子宮からの出血で受診 診断は「がんの前段階」


沖縄に移住した年、すぐにパートナーができたが、その頃から性交後出血を繰り返すようになっていた。その年の10月、不安になって近所のレディースクリニックで診察をしてもらった結果、「軽度異形成」と言われた。

「軽度異形成」とは子宮頸がんの前段階で、自然に治る可能性が高いとされるため経過観察をしていくことになった。軽度ながらかなりショックだったものの、そのうち治るだろうと思い、日常を過ごしていた。

再検査は半年後の予定だったが、不正出血の頻度に不安が高まり、18年1月に再度クリニックで診てもらった。でもこの時は再検査までにまだ時間があったため、特に対処はされず出血の原因も不明だった。

原因がわからずもやもやした気持ちを抱えながらも、沖縄に来てまだ余裕もなく仕事も徐々に忙しくなっていた私は、検査を後回しにしてしまっていた。

結局、再検査に行ったのは18年8月。診断結果は軽度異形成のままだった。けれどその頃には検査の器具を入れるだけでも子宮頸部から出血するし性交後の出血も増えていたので、ただただ不安が募っていった。

詳しく検査するには、組織の一部を採取して異常を調べる組織診という検査が必要だったが、近所の小さなクリニックでは検査により出血が止まらなくなった際に止血できない可能性があったため、6日後に市民病院で行った。

まさか私ががんを経験することになるなんて

再検査から1ヶ月後、私が受けたのは「子宮頸がん」の告知だった。

その場の雰囲気や1人で来ているのか聞かれたことで、私は告知されることを何となく悟った。早く治療を始めた方が良いこと、大学病院へ移って腫瘍のある範囲を調べ、それにより今後の治療法が決まることを聞いた。

もちろん初めてのがん宣告に、私は自分ごとだとは思えずにうわの空で淡々と話を聞いていた。それでも先生の「深刻です」の一言を鮮明に覚えている。

この間まで軽度異形成という診断だったのにいきなりがんだなんて。まさか自分ががんを経験することになるなんて。

告知された直後の待合室では、意外とショックよりも、今の生活がどうなってしまうのかを冷静に考えていた。せっかく沖縄に移住して仕事も順調にいきはじめていたところなのに、どうしてこのタイミングでがんになってしまったんだろう……。

その後は触診や超音波、MRIなどの詳細な検査をしたり治療法の説明を聞きに行ったり、仕事の合間に病院通いをする多忙な日々が続いた。

がんのステージは病巣の大きさが4cm以内である1B1期。私の場合は広汎子宮全摘術といって、子宮や卵巣、その付近のリンパ節などをごっそり取り除く手術が必要だと医師から告げられた。

しかし沖縄の病院では開腹手術しか選択肢がなかったため、内視鏡の一種である腹腔鏡を使用した、「腹腔鏡下手術」の名医がいる都内の病院に転院することにした。この手術では開腹手術に比べてお腹を大きく切ることがないので、手術の傷跡が小さく、術後の痛みも少ない。

子供が産めなくなるのにお腹に傷跡まで作って悲しい思いをしたくなかったし、家族が近くにいるほうが安心だったから。

子宮摘出の手術、抗がん剤治療 治ることだけを信じて前に進んだ

18年10月、都内の病院でも検査を受けた。結果は「腺扁平上皮がん」。そのなかでも再発の可能性が高く予後が悪い、つまり悪化する可能性が高い種類だと診断された。

子宮を全摘すれば妊娠が不可能になる。子供を諦め切れない気持ちもあってセカンドオピニオンにも行った。子宮頸がんのことを調べるなかで、子宮本体と卵巣を残し、子宮頸部のみを摘出することで、妊娠能力を温存する「広汎子宮頸部摘出術(トラケレクトミー)」という方法があるということを知った。そこにわずかな望みを託したが、私の病状ではかなりのリスクがあると説明を受けた。

独身でこの頃にはパートナーと別れていた私は、ここで完全に諦めがついて転院した病院で子宮を取ることを決めた。

がんになると短時間で色んなことを決めていかなければならない。目まぐるしい日々を私はたった一人でこなした。母にはがん宣告された日にLINEで伝えたけれど、その後に特別、病気についてのやりとりがあったわけではなかった。ただ、母はそのLINEを見た瞬間にショックでスマホを落とし、画面を粉々にしたことを後から聞いた。


告知から2ヶ月後の18年11月、手術を受けた。診察より腫瘍が大きくステージは1B2期へと上がった。それでも腹腔鏡下手術のおかげで回復は早く、体力を戻すために院内をウロウロするくらい元気だった。

その後すぐに抗がん剤治療もした。脱毛も経験した。でも私は前向きに、治ることだけを信じて頑張った。


排尿障害や体型の変化など、術前とは身体の感覚が変わってしまったところもある。それでも不便は時間が解決してくれて、旅行へ行ったり山に登ったりできるまでに体力は回復していった。

「生きたい」という気持ちだけで

術後1年の検診日。肺への再発転移を告げられた。

それは初めてがんを宣告された時よりショックだった。

信じていたことが裏切られた気持ち、死へ近づいたことへの不安。それでも「また治療すれば大丈夫!」と前を向き、再び抗がん剤治療に臨んだ。


しかし途中でアレルギーを起こしてしまい薬剤が使えなくなったり、治験を受けるも効果がなかったり。そして今は縦隔や鎖骨のリンパ節にも転移していて、放射線治療の後、わずかな望みをかけてまた抗がん剤治療を始めている。

なかなか思うようにはいかないけれど、「生きたい」という気持ちだけで前に進んでいる。

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