- 2020年12月29日 17:30
スポーツの本質的暴力性とどうつきあうか
1/2リモート読書会は、川谷茂樹『スポーツ倫理学講義』を取り上げた。
この本についてはすでに2005年に書評を書いている。
例えば写真は、今年11月28日付の西日本新聞夕刊の記事であるが、柔道の1984年五輪における山下・ラシュワン戦を振り返り、怪我をしていた山下の「右足は狙わないと決めていた」とするラシュワンの言葉を載せ、「その高潔な精神は世界で評価され、国際フェアプレー賞を受賞した」とする。1面のほとんどを使って、相手の弱点を狙わないことを「フェアプレー」として称揚している。
川谷は、この山下・ラシュワン戦を冒頭に題材にとり、「相手の弱点を狙わないことはスポーツマンシップに悖るのか」という問いを立てている。
川谷は、勝敗の決着こそがスポーツの内在的目的であり、それがスポーツのエトスだとする。少なくとも対戦型競技では弱点を攻めることが勝利のためには絶対に必要なことであり、弱点を攻めてはいけないというのは、スポーツの外側から持ち込まれたものに過ぎないことを明らかにしていく。
したがってスポーツはもともと勝利至上主義たらざるをえず、敗北という害悪を相手に与えようとする意味で本質的に暴力的であるとする。
このようなスポーツは元来勝利至上主義という本質を持っていることを暴くことは、例えば「しんぶん赤旗」のような左派的良識からすれば、驚くべき結論になってしまう。同紙で川口智久(一橋大名誉教授・スポーツ社会論)は日大アメフトの規則違反などの問題を次のように説明する。
元来、スポーツにおける競争が、相手を尊重し、習得した技術の交流によって互いに人間としての豊かな高まり、人間らしい生き方を追求することが目的であることからすると、起こってはならない非合理な事態が生じたことになる。/そして、その根本的な原因は勝利至上主義の思想にあり、今回のケースはそれを当然視する指導者と受け入れざるを得ない競技者の主従関係が最大の問題であったといえよう。(川口/しんぶん赤旗2018年6月5日付、強調は引用者)
川谷のスポーツ観とは正反対のものが見て取れるだろう。ぼくも左翼としてはどちらかといえば、川口のような論理に日常接している。
しかし、川谷が緻密な論理によって、スポーツがどのような論理構造を持っているかを暴く様は実に見事で、その時ぼくは、この本をスポーツ論という以上に「哲学をすることの愉悦」として捉えのであるた。
当時の記事でぼくはこの本について次のように書いた。
ぼくらの思考はふつうは常識のなかにどっぷりと浸かっていて、それをいったんぬぐってみたとしても常識や日常道徳は思考にふかくこびりついているものである。いや、こびりついているなどという程度のものではなく、それから逃れることはなかなかできない。
ところが、哲学という装置を使い、物事を徹底的につきつめていったとき、バキバキバキバキと大きな音をたてて固まったドロのようにこびりついていた常識が割れて剥がれ落ちていくのがわかる。あるいは常識という小さくて排除できない害虫が哲学という薬品を噴霧して残らず殺すような残酷な徹底性がある。
また、常識をあざやかに反転させる爽快感は、徹底した思考をしたものだけが得られる特典だ。
これは、哲学をするということの愉悦である。
川谷のこの本を読んでいると、哲学をすることの楽しさが伝わってくる。
今もこの点がぼくにとっては本書評価の基本である。
川谷は、哲学の議論に、常識、道徳、民主主義的多数感覚を持ち込もうとする企てを厳しく批判する。「本書を読み進めるにあたって、倫理学/哲学の素養は特に必要ない」(まえがき)のである。
また哲学上の碩学の言葉を借りて議論する態度についても厳しく批判する。
ボクシングが暴力的かどうかを、J.S.ミルを味方につけて論じようとする学者の態度を「おもしろくない」と川谷は言う。
それでは、どうすればおもしろくなるでしょうか。簡単なことです。事柄そのもの(Sacheselbst)を、もっと突き詰めて考えればよいのです。「事柄そのもの」とはこの場合、ボクシングです。先ほどの論争は、ボクシングの周辺をぐるぐる回っているだけで、ボクシングそのものについて何も明らかにしていない。だから、つまらないのです。(川谷p.111-112)