毛利衛氏が日本人宇宙飛行士としてはじめてスペースシャトルに搭乗したのは1992年。以来、小惑星探査機「はやぶさ」に代表される日本の宇宙科学技術はめざましい進歩を遂げ、人類にとって宇宙は単に憧れるだけの対象ではなくなっている。そして現在、毛利氏が館長を務める日本科学未来館では、科学技術と社会のつながりを一般市民とともに考え、語り合う場を提供している。今回は毛利氏がなぜ宇宙を目指したのか。それを実現させた原動力は何だったのか。宇宙を目指した経緯とその原点について話を伺った。
取材・文/木村光一 撮影/荻山拓也
北海道・余市から見た人工衛星が宇宙に憧れを抱くきっかけに
みんなの介護 日本の宇宙飛行士のパイオニアと言われている毛利さんですが、宇宙に興味を抱くようになったきっかけは何だったのでしょうか。
毛利 私が宇宙に憧れを抱くようになったきっかけは、1957年10月4日にソビエト連邦(現・ロシア)が世界ではじめて打ち上げに成功した人工衛星「スプートニク1号」を見たことです。
当時私は小学4年生でした。ある日の夕方、兄に誘われて一緒に空を見上げたら、小さな光の点が動いているのが見えた。流れ星とは違うゆっくりした移動で、ものすごく明るかったのが印象的でした。私の生まれ故郷である北海道の余市からは、その輝きがはっきり確認できました。
この出来事を契機としてソ連とアメリカの人工衛星打ち上げ競争が始まり、私が中学2年のとき、1961年4月12日、ユーリイ・ガガーリンがついに人類初の有人宇宙飛行に成功。有名な「地球は青かった」という言葉が世界を駆け巡りました。
私の少年時代のアルバムには、そのときの感動と興奮を物語る1枚の写真が残っています。ガガーリンの映ったブラウン管テレビの後ろに右腕を回して肩を組んだつもりになっている13歳の私の姿です(笑)。
みんなの介護 とても微笑ましい素敵なエピソードです。
毛利 実はNASA(アメリカ航空宇宙局)の宇宙飛行士採用面接でも、候補者は「いつ、宇宙飛行士になりたいと思ったのですか」という質問を必ず受けます。
一見素朴なこの質問は、宇宙飛行で直面するかもしれない「想定外の困難を乗り越えられるかどうか」を判断するうえで重要なポイントになっています。“生きるか死ぬか”という局面で力を発揮できるかどうかは、その人のモチベーションの原点と大きくかかわっているのです。
日食で体感した太陽の素晴らしさに科学の目を開かされた
みんなの介護 幼少期の経験からどのようにして宇宙飛行士になる道を歩んだのでしょうか。
毛利 当時、高度な宇宙開発の主役はあくまでアメリカやソ連であって、残念ながら日本人が宇宙飛行士になれる可能性はありませんでした。
そんな夢が夢でしかなかった高校1年生のとき、網走で皆既日食を見たのです。日の出の時刻、厚い雲の向こうに細長い三日月のような太陽が現れ、さらに線のように細くなり、あたりが薄暗くなって、やがて黒い太陽の周りにはぱあっと輝くコロナ(太陽を取り巻くガスのこと)が広がった。冷たい風が吹いてきて、周囲の草むらがざわざわと音を立てました。
29秒後、黒い太陽の右上の一角がダイヤモンドリングのように輝いてふたたびまぶしい太陽が現れると、急に自分の体が温かくなった。そのとき、地球上のあらゆる生命はこの太陽エネルギーの賜物なのだと直感的に理解し、その素晴らしさに感動しました。それ以来、自分の中で自然現象に対する興味がどんどん膨らんで、どうしてそういう現象が起こるのかを解き明かしたいという欲求が強くなっていったのです。