人間には、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の5つの知覚がある。歌詞を書く時、作者はそれらの知覚を駆使して言葉を紡いでいくことになる。例えば、主人公が海辺にいる時、「水平線を外国船が横切る」と書けばこれは視覚的な描写だし、「寄せては返す波の音」と書けば聴覚的、「潮風の匂い」と書けば嗅覚的、「足にまとわりつく砂」と書けば触覚的、「しょっぱい水」と書けば味覚的な描写である。少し考えただけでもこんな風に様々な角度から海辺を表現できるものであるが、実際、世の中にある歌詞はどうかというと、案外、視覚的な描写ばかりで書かれていることが多い。
©iStock.com
頭の中で物語を紡ぐとほとんどが視覚的な描写になる
これまで、色々なアーティストと歌詞を共作してきた私の経験上、作者の実体験を元にした歌の場合は視覚以外の描写も出てくるが、作者がフィクションで頭の中で物語を紡いでいく場合、ほとんどが視覚的な描写になっていく傾向があるように思う。
フィクションはその性質上、空想の映像を言葉にしていく作業なので、言語化しようとした時に視覚的な書き方に偏ってしまうのは、仕方がないといえば仕方がないのかもしれない。しかし、先にも述べたように、そもそも世の中には視覚的な表現で書かれた歌が多いので、視覚的な歌詞はどこかで聞いたことのあるような印象を与えやすい。
それを嫌って、作者がさらに複雑な設定の物語を空想していくと、今度はどんどんニッチな内容になっていって、共感を得にくくなってしまう、なんていうこともある。はじめから他の知覚を用いて作詞してさえいれば、ありがちな歌になることを避けられたのかもしれないのに。
人間の知覚は視覚が83%
一説によると人間の知覚の割合というのは、視覚83%、聴覚11%、嗅覚3.5%、触覚1.5%、味覚1%なのだという。この数字を見ても、いかに人間という生き物が視覚優位で暮らしているかがわかる。その証拠に、目隠しをした状態で料理を口に入れられると、多くの人は何を食べたのか当てられない。味覚と嗅覚と触覚のパーセンテージを全部足しても6%しかないのだから、その正解率が低いのもうなずける話だ。
聴覚と嗅覚を刺激するワードを使った『香水』
前置きが長くなったけれど、昨年春にリリースされ、今年に入ってTikTokをきっかけに爆発的ヒットを記録しているシンガー・ソングライター、瑛人さんの『香水』。
Bメロの自虐的でせつない歌詞もいいが、やはりこの歌の一番のポイントは、サビの「君のドルチェ&ガッバーナのその香水のせいだよ」の部分だと思う。誰もが知っているけれどなかなか口に出すことのない「ドルチェ&ガッバーナ」という聴覚を刺激するワードと、「香水」という嗅覚を刺激するワード。別れた彼女を思い出す歌は世界中にたくさんあるけれど、視覚ではない二つのワードの組み合わせが、この曲を特別なものに変えているような気がする。
***
音楽を聞いていると、よく「言葉にできない思い」というようなフレーズを耳にする。自分でも過去にそんな言葉を何度か書いたりもしたことがあるけれど、その表現にこの頃、ちょっとした違和感を覚えるようになってきた。
というのも、「言葉にできない思い」があるとわざわざ言っているということは、その人は日頃自分の感情をすべて言葉に出来ているということになる。しかし、どうだろう。私たちは本当にそんな大そうなことを日々やってのけているのだろうか。
「愛している」では伝わらないから、言い換えをする
自分の感情を他人に伝えるために、人類が発明した非常に便利な道具が「言葉」である。言葉という道具はあまりにも便利すぎて、ともすれば忘れてしまいそうになるけれど、私たちが言葉を使って表現しているのはいつだって「感情の近似値」にすぎない。その意味で、言葉は常に大なり小なり誤差を孕んでいるものではないかと思うのである。
例えば、恋人に「愛している」と伝える時、ただ単に「愛している」と口から発しただけで、愛情がすべて伝わるかというと、残念ながらそうではない。「愛している」の一言だけで、相手のことをどんな風に、どのくらい愛しているかを表現するのはハリウッドの名優でも難しいだろう。だから私たちは、「君の笑顔だけが僕の幸せだ」とか、「出会った時から寝ても覚めても君のことばかり考えている」とか、「世界中を敵に回しても僕は君の味方だ」などと、「愛している」の言い換えをするのである。