- 2020年12月16日 15:54
包丁を持つ「被害者」は、DV被害者か
1/2■ DVの捉え方
共同親権に社会が向かうとき、DV加害者にとってそれ(共同親権)はDVターゲット(被害者)を加害者が発見しやすいとDV支援者はいう。
そのため、それを理由にして、DV支援者は共同親権に反対し、現在の単独親権に執着する。
動機はDV加害者へのそうした警戒であるが、その単独親権への執着がエスカレートし、離婚支援の「技術」として「子どものabduction アブダクション/拉致」が定式化された。
アブダクションの理由とてして「虚偽DV」が確立され、それを助けるように女性支援センター等での「相談記録」のみでDVという事実が確立される。
その、「虚偽DV→子どものアブダクション」の被害にあった別居親たちが、現在は徐々に名乗りをあげて訴えている段階だ。
こうした理不尽のもとには、「DV/ドメスティックバイエレンス」の捉え方がある。
現在、DVは児童虐待と同じように、「心理的」「経済的」「無視(ネグレクト)」のようにその「暴力」のあり方が拡大されて捉えられている。
その拡大方針には僕は賛成だ。これまでの社会は「暴力」や「傷つき/トラウマ」に対してあまりにも寛容で、現実の肉体と肉体が衝突するそれ(性暴力含む)を、主として暴力と捉えてきた。
だが、哲学的には、「主体」や「自我」が強引に何か(「他者」)をカテゴライズすることが暴力だとされる。
暴力とはそれほどナイーブなものであり、主体が強引に行なう事象(怒鳴る、無視する、懲罰としてカネを与えない)はすべて暴力になる。
■ その暴力はいつも一方通行なのか
そんな、「主体による刻印」としての暴力のあり方と同時に、
「その暴力はいつも一方通行なのか」
という問いを僕はこれまでずっと考えてきた。
たとえば誰がが誰かを殴る場面を想定してみると、2人が対峙している時に、いきなり一方が一方を殴ることはほぼない(見知らぬ他人への衝動殺人くらいか)。
多くは、口論(心理的暴力)がその身体的暴力の前に続いていたはずだ。
そして、何かのきっかけで「手が出る」。その「手が出る」手前の時点で、心理的暴力(怒鳴り合い)が多くの場合は発生している。また、その心理的暴力が発生する前の段階では、何日にもわたる無視/ネグレクトもあるだろう。
そのネグレクトに追い討ちをかけるために経済的DVも、「水責め」のようにして発生することがあると思う。
経済的暴力を黙って受ける人もいれば、心理的暴力(怒声)で逆襲する場合もある。
そのような、いくつもの「暴力」が重なって身体的暴力に到達するが、その身体的暴力の場面においても、殴られっぱなしでありながらも怒鳴り返す人もいると思う。また、一方的に怒鳴られながらも、殴られている間「黙ってにらみ続ける(ある種のネグレクト)」人もいると思う。
あるいは、殴られた後、衝動的にキッチンに走っていき、包丁を構える「被害者」もいる。