「不動の人気駄菓子は…」たった一軒だけ残った日暮里の問屋「大屋商店」はいま から続く
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池袋駅東口から明治通りを南へ歩くこと約15分。安産、育児の神が祀られている鬼子母神堂の境内に、その店は構えていた。
趣のある木造建築の平屋には、楷書体で「上川口屋」(かみかわぐちや)と書かれた屋号が、軒下の中央に大きく掲げられている。(全2回の2回目/前編を読む)
江戸時代から続く創業239年の「上川口屋」
創業から数えて13代目の店主、雅代さん
屋号の上には少し控え目な文字で、「創業一七八一年」とある。
江戸中期の天明元年だ。江戸幕府の第10代将軍徳川家治が治めた時代で、翌年には奥羽(現在の東北地方)・関東地方を中心に「天明の飢饉」が発生した。冷害や浅間山の噴火などで大凶作となり、疫病の流行もあって、餓死者・病死者は全国で90万人を超えたと言われる。以来、明治、昭和、平成、そして令和へと時代の移り変わりを経て239年、今もこの地に連綿と受け継がれてきた駄菓子屋である。
境内が黄色い落ち葉で敷き詰められた11月半ば、店をのぞいてみると、七五三で参拝に訪れた、晴れ着姿の親子連れらで賑わっていた。駄菓子が並ぶ縁台の奥で、グレーのニット帽をかぶり、チェック柄のエプロンを身に着けた内山雅代さん(80)が1人、買い物客にてきぱきした手つきで売りさばいていた。創業から数えて13代目の店主だ。
「おばあちゃんにお金の使い方教えてもらった」
「1本引いて! ぎゅっと引っ張って! はい、離して! あと10円残っているからうまい棒かきな粉飴か、サラミも買えるね」
「あなたできるかな? おー、おじょうーず、おじょうーず」
子どもたちを前に、雅代さんは糸引き飴のやり方を語り掛けるように教えていた。常連の大人が来ると、
「あら、お久しぶり!(コロナで)嫌な世の中になっちゃったね」
「今日は23度ですって。動くと暑いですよね」
などと声を掛け、客からは、
「また来るね、おばあちゃん。元気でね!」
と励ましの言葉がかかる。
何気ない挨拶程度のやり取りだが、時には長話にもなる。上川口屋では、ものの数分という買い物の時間に、店主と客とのコミュニケーションが確かに生まれていた。
雅代さんが嬉しそうに語る。
「子供の頃によく来てくれた子が『おばあちゃんにお金の使い方教えてもらった』って成人式の時に振り袖姿を見せに来るんです。『子供が産まれました。抱っこしてやって下さい』なんて来る子もいます。女の子が多いんですが、中には羽織袴を着た金髪の子が『おばちゃん覚えている?』って。それでスマホで一緒に写真撮るんですよ。そんなの楽しいじゃない? そうやって私とコミュニケーションを取って、お金の使い方とかお金の価値をここで覚えていったんです。それこそお金に換えがたい喜びですよ」
もっとも、喜びばかりではない。その陰で雅代さんは、店を守り続けるために生活費を切り詰め、ぎりぎりの暮らしを送っていた。
「駄菓子屋のくせに消費税取るのか!」
駄菓子屋の利益率は、売り上げの2割程度と言われる。持ち家ならまだしも、借家で商いを続けるとなれば、懐事情は相当に厳しくなる。客単価もせいぜい数百円で、1000円を超えることはほとんどない。
上川口屋の奥の壁には「税込み早見表」と書かれた冊子が貼り付けられ、税込み価格が、10円ごとに記されている。消費税8%の計算がややこしいからと、雅代さんの息子が用意してくれたのだ。めくりすぎたせいか、最初のページはぼろぼろだ。この早見表は1200円までしか表示されておらず、それが客単価の上限を暗示していた。消費税をめぐって、雅代さんがこんな苦い体験を語ってくれた。
「3%の時は計算がやっかいだし、子供からも取りにくいからと我慢してたんです。でも5%に上がった時にさすがに取り始めたら、『駄菓子屋のくせに消費税取るのか!』と文句言う大人がいてね」
中にはこんな嫌味を言う客もいた。
「5%だったら10円50銭だろ!」
お釣りを返せないため、雅代さんが2つ買って下さいとお願いすると、
「2つはいらないんだよ」
と、立ち去られた。
「子供を騙して消費税取るの?」
「消費税を支払っている証拠を見せろ」
などと迫られたこともある。確かに微々たる金額かもしれないが、駄菓子屋の懐事情を考えると、そうも言っていられなかった。