第一次世界大戦を経て産業構造が激変したことで生まれたとされる“サラリーマン”という働き方。日本での誕生からおよそ100年が経つこととなる。これまで、日本のサラリーマンは、どのように働いてきたのか。
ここでは、パオロ・マッツァリーノ氏の著書『サラリーマン生態100年史 ニッポンの社長、社員、職場』を引用し、今も昔もサラリーマンを悩ませる“通勤”の歴史を紹介する。
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長距離通勤の萌芽
昭和になると、以前は多少余裕のあった省線でも混雑が常態化し、いよいよ東京の通勤地獄はのっぴきならぬものに。
戦前昭和の東京市はとても熱心に各種統計を取っていて、その資料が残っているのがありがたい。そのひとつ、昭和4(1929)年の暮れに実施された「帝都中心地域昼間人口調査」から、戦前の通勤事情の一端を垣間見ることができます。
当時東京のビジネス中心地といえば東京駅とその周辺。麹町・日本橋・京橋・芝の4区に通勤・通学する人たちが調査対象となってます。通学者も含まれてますが、調査対象者12万人のうち、通学者はおそらく職業別で無職に分類されている4900人だと思われるので、少数とみなしていいでしょう。
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かつての通勤電車に“おじさん”はほとんどいなかった
いまとあきらかに違うのは通勤者の顔ぶれがフレッシュなこと。20代が圧倒的で、全体の4割近くを占めてます。50代以上は7パーセントしかいません。戦前は50代で仕事を辞めてた人がかなりいたということです。自分の意志によるのか、お払い箱にされたのかはともかく。
通勤時間に関する調査項目はないのですが、どこから通ってるかという結果から推察できます。
東京市内から通う人が40パーセント。戦前の東京は8割以上が借家暮らし。だったら、家賃を払える範囲でなるべく会社に近いほうがいいに決まってます。戦後、通勤時間が飛躍的に延びたのは、マイホーム用の安い土地を求めて、都心から離れていった結果です。
市内といっても、昭和4年の東京市はまだかなり狭いんです。現在の品川、新宿、池袋はいずれも市外の「郡」扱い。池袋なんて、乳牛を飼う牧場が点在してたことで有名なくらいです。とはいえこの年、新宿駅の乗降客数が東京駅を上回りました。東京の都市圏の拡大は、都心から郊外に向け、急速に進んでいたのです。
東京市外の郡部から通勤してた人は全体の50パーセント。市内の4割とあわせると、東京の中心部で働く人の9割は東京在住だったことがあきらかになりました。なんだかんだいっても、まだ戦前は、東京で働く人は東京に住むのが普通でした。
昭和初期になると東京まで小一時間のエリアも通勤圏に
しかし戦前にも、県外からの長距離通勤者がいたことがわかります。なかでも多かったのは神奈川県からで、3.5パーセント。埼玉、千葉からの通勤者もいるにはいますが、さすがに全体の1パーセントにも満たない少数派です。
昭和8年に出版された『文化の大東京』なる東京ガイドには、東京駅までの通勤時間という項目があり、西は浅川(現・高尾)、南は神奈川県横須賀、北は埼玉県大宮、東は千葉県船橋までの路線図が載ってます。
浅川から東京までは72分、横須賀から68分、大宮43分、船橋34分。どうやら昭和初期になると、東京まで小一時間かかる地域も通勤圏とみなされるようになってきたようです。
難色を示された時差出勤
それでもなんとか通勤地獄を解消できないかと、鉄道会社や学者たちは100年前から知恵を絞ってきました。
そのうちのひとつが、時差出勤の奨励です。みんなが一斉に同じ時刻に電車に乗るから混む。だったら分散させればいい。だれでも思いつくアイデアだけに、じつは戦前から提唱されていたことは、あまり知られてないかもしれません。
戦前の鉄道局は大工場や学校に対し、始業・終業時間を他とずらしてもらえないかと、昭和初期から働きかけてました。とはいえなかなか応じてもらえません。戦争に突入した1940年代になってようやく、官庁や企業の協力で一部実施できたことが新聞で報じられてます。非常時でお上が国民の行動を統制しやすくなったからだと考えると、手放しでは喜べませんが。
戦後も1960年代から時差出勤が盛んに奨励されたのですが、やはり実現は困難でした。会社ごとに始業時間がまちまちだと、取引先との仕事に支障があるというのがおもな理由でしたけど、そんなのいくらでも調整可能なはず。ホントの理由は、日本人が横並びをこよなく愛する国民だというだけのことです。全員揃って朝礼とラジオ体操をやることに執念を燃やす日本人。
定期運賃は上げる? タダにしちゃう?
経済学者からは、定期代の過剰な割引きが混雑を招いているとの指摘が。たとえば観光地のホテルでは、客が多い繁忙期には宿泊料を高くして、シーズンオフには割引きします。それによって混雑を平均化させる狙いがあるのですが、苦情をいう人はあまりいませんよね。
なのに、鉄道はこの経済原則に反したことをやってます。一番混雑する時間帯の利用者のほとんどが、割引きされた定期で通ってます。しかもむかしの国鉄の定期割引率がまた破格で、7割から8割引きだったんです。JRの定期割引率は現在4割から5割引きなので、いかに破格の大バーゲンだったかがわかります。公共のためとはいえ、こんなむちゃしたら商売が成り立つわけがない。
経済原則にしたがえば、逆にラッシュ時の運賃を割り増ししなければいけないはずですし、そうすれば社員に交通費を支給する会社側が経費削減のため、積極的に時差出勤に協力したかもしれません――が、実現に到らなかったのは、当時まだ、ラッシュ時のみの定期運賃割り増しを実行する方法がなかったからです。いまなら自動改札とICカード定期券の組み合わせで実現可能ですけどね。
そんななか、とても刺激的な論考がありました。1967(昭和42)年の『文藝春秋』9月号に載った、真逆の「通勤電車タダ論」。鉄道マニアのおっちゃんが飲み屋で理想を語ってたんじゃないですよ。なんと、当時国鉄副総裁だった磯崎叡のマジメな提案です。
さすがに国鉄副総裁ともなると、あたりまえだけど国鉄全体の経営状態を数字で把握して、問題点を洗い出しています。先ほどの定期割引きの問題にしても、大都市圏の定期輸送人員は総旅客輸送量の53パーセントに達するのに、定期運賃収入は総運賃収入の8パーセントにすぎない、と具体的。もしも戦後に国から指示された運賃抑制政策がなかったら、国鉄は自己資金だけで鉄道網の拡充ができたはずといいます。
ところが現実には、鉄道の整備は国鉄が借金してやっていたのです。なぜ国は、利用者がほとんど見込めない高速道路を税金でじゃんじゃん作るのに、はるかに公共性が高い鉄道整備に税金を使おうとしないのか、と政府を手厳しく批判しています。
その上で、国がもしも通勤用の鉄道を税金で整備して、国鉄に運営をまかせてくれるなら、通勤運賃をタダにしてもいい、そのほうが、借金まみれで設備投資をするよりも国鉄はトクだから。これが通勤電車タダ論の真意です。
「ご苦労さま」は目上への言葉、「お疲れさま」はチャラい流行語…正しい“敬語”の奇妙な変遷 へ続く
(パオロ・マッツァリーノ)