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不測の未来と政治の時間性――ホッブズとトゥキュディデスの視点 - 梅田百合香 / 政治思想史、社会思想史

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はじめに

2020年、新型コロナウィルス感染拡大に伴い、各国政府が入国制限やロックダウン(都市封鎖)に踏み切った。世界保健機構(WHO)は「パンデミック」を宣言し、各国で移動の自由という国民の基本的な権利が制限された。

グローバリゼーションが深化しつつあるなかであっても、非常事態となると、やはりリヴァイアサン(国家)が前面に出てきて強制力を発動する。入国制限という措置は、人々に国境という地理的境界を可視化し、国家の権限の及ぶ範囲を現実のものとして人々に実感させ、自覚化を促した。

『リヴァイアサン』(1651年)の著者であるトマス・ホッブズ(1588-1679)も、国家の役割は人民の安全を確保することであると明言している。国家の存在理由が人民の福祉(salus populi)である以上、今後どうなるかわからないという不測の事態において、国民を守るために各国政府が強く厳しい措置を取るのは当然であるともいえる。

ホッブズはかつて古代ギリシアの歴史家トゥキュディデスのことを、「過去の行為を知ることを通じて、現在においては慎慮を持って、未来に向かっては先見の明を持って振る舞うように、人々を導き、そのように可能ならしめる…かつて存在するなかで最も政治的な歴史家」と賞賛した(Thucydides 1989, xxi-xxii)。

政治とは本質的に未来に効果を及ぼそうとする時間的な行為である。この小論では、トゥキュディデスを愛好し、自身の政治学によって「未来に向かって先見の明を持って(providently)振る舞うように」人々を導くことを志向したホッブズの、その時間的な政治のイメージを簡単に紹介したい。

トゥキュディデスの人間本性論

ヨーロッパでは14世紀のペストの大流行がよく知られているが、ホッブズの時代にもペストが大流行した。疫病流行は不穏な政治・社会情勢を引き起こす。ホッブズの出版デビュー作はトゥキュディデスの『戦史』の英訳(1629年)であるが、そのなかでもアテナイにおける疫病流行とその悲惨な顛末が描かれている。

ペロポネソス戦争が始まって一年目が過ぎた頃、アテナイで疫病が流行った。金持ちも貧乏人も善人も悪人も平等に襲われ、悲惨な死を遂げた。疫病による災禍があまりに圧倒的なため、人々はいつ死ぬかわからないと絶望と自暴自棄に追い込まれ、刹那的な快楽に走り、神々への信仰も法を守ろうという遵法意識も失うに至った。こうして社会にかつてない無法状態が生み出されていった(Thucydides 1989, II. 47-53)。

トゥキュディデスによれば、戦争や内乱、疫病蔓延による無法状態という極限状況は、生命の維持や満足した生活に必要なものを奪うため、その暴力的な事態が弱肉強食を説く教師のごとく、人間の情念をただ目の前の安全か危険かの一点に釘付けにする。この安危存亡という究極の状況においては、人間の情念の同一の性質が露わになり、人間本性の同一性が明らかとなる。

例えば、内乱においては正々堂々たる対決より虚を衝いた先制攻撃のほうがより安全であり、欺いて勝利するほうが知恵の戦いでも勝利したこととなってより満足感を得る。無力な善人であるより、狡猾な悪人であるほうが自慢となる。これらの原因は、貪欲と名誉欲から来る支配欲と党派心による熱狂であるが、それはまさに極限状況において露出する人間の本性であって、こうした状況下で法則的に現れる人間の同一な性分なのである(Thucydides 1989, III. 82)。

ホッブズはトゥキュディデスの人間本性に関するこの観点を受容しつつ、のちに自身の哲学的探究のなかで人間の情念の法則性をつかみ、自然状態論を含む人間論として理論化した。そして、戦争・内乱による惨禍を回避し抑止するための政治学を哲学(科学)の一部門として構築していくことになる。

政治的な教育

ホッブズはトゥキュディデスの『戦史』を翻訳した理由を、献辞と序文で次のように述べている。「その著作は高貴な方々にとって役に立つ指針となることを含み、かつ重大な行動において采配を振ることを可能にするものだからです」(Thucydides 1989, xx)。「この歴史は充分な分別と教養を持ったすべての人々によって、たいそうな利益を伴って読まれるだろうと私は思い(そうした人々のために、そのことはトゥキュディデスによって当初から意図されていました)、それが受け入れられる望みがないわけではありませんので、ついに私の労作を公刊することにしました」(Thucydides 1989, xxiv)。

ホッブズから見るに、『戦史』は、当時のイングランドで政治的および国家的行為に現在または将来において携わる人々を教育する指南書としてふさわしい作品であった。ホッブズはやはりのちに、自著『リヴァイアサン』が公的に教えられ、それを主権者が保護することを期待する旨をその書のなかで謳っている(Leviathan, Ch. 31, 574)。ホッブズにとって、『戦史』や『リヴァイアサン』の読者対象は主として政治に直接間接に関わる教養のある人々であって、その目的は政治的教育であった。

さて、「高貴な方々」や「充分な分別と教養を持ったすべての人々」のうち、「重大な行動において采配を振ること」を職務とする人々の筆頭は、主権者である。ホッブズの時代、主権者になり得るのは国王か議会であった。

英訳『戦史』の約20年後の作品である『リヴァイアサン』では、読者は主権者の権利と臣民の義務を学ぶ。主権者が国王であれば、議会議員たちは自らの領分を充分に認識し、臣民としての義務を厳密に学ぶ必要がある。主権者が議会であれば、国民を一人格として統合する主権合議体としての権利をいかに行使すべきか、個々の議会議員は学ばねばならない。結果、内乱の勝利者は議会軍であった。

ホッブズは、一方で亡命宮廷のチャールズ2世に子牛皮紙装丁の手書きの『リヴァイアサン』を献呈するが、他方で共和政イングランドに帰国し、平穏に研究生活を続けた。権力を担う特定の人々についてではなく、権力の座について抽象的に論じていると自負するホッブズにとって、この行為は矛盾したものではなかったのであろう(Leviathan, The Epistle Dedicatory, 4)。

ホッブズは、主権者となる人もしくは人々に、「国民全体を統治すべき人は、自分自身のなかに、あれこれの個々の人間のことではなく、人類を読み取らなければならない」が、『リヴァイアサン』を読めばそれもさほど難しいことではないと説く(Leviathan, Intro. , 20)。ホッブズからすれば、主権者が国王であれ議会であれ、主権者となったからには、「人民の福祉」を全うしてもらわねばならないのであり、その方法を政治学の指南書である本書が教えるというのである。

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