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「ネットで社会は変わる」という思いが失望に変わるまで…東浩紀が明かす「ゲンロン」での苦悩 『ゲンロン戦記 「知の観客」をつくる』より #2 - 東 浩紀

「確実に文化を貧しくする」SNSによる負の影響と戦い続けた10年間を東浩紀が振り返る から続く

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 作家・思想家の東浩紀氏が立ち上げた知のプラットフォーム「ゲンロン」は、ネットで社会が変えられるという思い、そして若い世代のオルタナティブな運動への期待から生まれた。しかし、いざ運営を始めてみると、一筋縄ではいかないさまざまな困難があり、若手論客へ活躍の場を与えるという当初の目論見は実現できなかったという。

 なぜ目論見は実現しなかったのか。なぜネットへの思い、若手世代への期待は失望に変わってしまったのか。東浩紀氏の新著『ゲンロン戦記 「知の観客」をつくる』を引用し、同氏が抱えた苦悩を紹介する。

◇◇◇

オルタナティブとの出会い

 もうひとつゲンロンにつながる動きを話しておきます。ぼくは1993年の学部生時代に批評誌でデビューしました。その後1998年にフランス現代思想を主題とする哲学書を出版し、このはじめての単行本がサントリー学芸賞を受賞しました。その時点では、「若いのにむずかしいことを書く哲学者」という位置づけでした。


©iStock.com

 けれども、昔からの読者は知っていると思いますが、当時すでにぼくの仕事には二面性がありました。ぼくはアカデミックな仕事とはべつにサブカルチャー批評の雑文も書いていて、そこでもそこそこ有名だったのです。そのなかでいまにつながる経験になったのがSFコミュニティとの出会いでした。

 ぼくはもともとSFの読者でした。けれども大きな集まりに行ったことはなかった。ところが2001年に千葉の幕張メッセで日本SF大会が開かれるとのことで、はじめて参加したんです。そして大きな衝撃を受けました。

 そこにはぼくが探していた「オルタナティブ」がありました。オルタナティブとは、メインストリームに取って代わる価値観のことです。オルタナティブな価値観を抱く人々がいるからこそ、旧体制が壊れ、新しい文化を生み出す。ぼくは当時すでに何冊か本を出していて、文壇では知られる存在になっていました。けれども、文芸誌や論壇誌は古くさくて居心地が悪かった。ところがSF大会には、文芸誌や論壇誌には登場しない、けれど何十万部も売れている作家たちが集まっていて、独自のネットワークをつくってファンと交流していたんですね。ディスカッションも高度だった。「なんだ、これこそオルタナティブじゃないか」と驚きました。

“サブカル”ではなく“オルタナティブ”が大切だった

 いまでも変わりませんが、文芸誌や論壇誌に集まるひとというのは、オルタナティブが必要といいながらも、基本的には権威主義で、エンタメとかアマチュアの世界を下に見ている。それじゃいけないんです。SF大会との出会いをきっかけに、こういうオルタナティブな場に真剣に向きあわなきゃいけないと思うようになりました。同年に『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001年11月)を出したこともあり、そのあとしばらくサブカルチャー批評に耽溺していくことになりますが、それはアニメが好きとかゲームが好きとかいったジャンルの話ではなかった。大事なのはオルタナティブということだったんですね。

 ネットとの出会いとオルタナティブとの出会い、このふたつがゲンロンの創業につながっていくことになります。

「若手論客」から離れて

 さらに欠かすことができないのは、2000年代末の「若手論客」ブームです。直接にはこちらが起業の出発点となります。

 2000年代後半から10年代にかけて、日本の論壇には「ゼロ年代系」と呼ばれる若手論客が一気に出てきました。いまは30代後半から40代前後で、テレビやラジオ、出版などで活躍しています。ぼくは一時期彼らを積極的に支援していて、ゲンロン創業時には彼らも力を貸してくれました。当時は、そういう人々を集めて「若手論客の新しい活躍の場」をつくろうという目論見がありました。

 結果的にはその目論見は実現しませんでした。その理由はぼく自身の弱さにあります。詳しくはおいおい話しますが、現時点でひとことだけ言っておくと、ぼくと彼らではそもそもの目的がちがいました。ぼくは、いま述べたようにとにかくオルタナティブな場をつくりたかった。でも若いひとはそう考えていなかった。

 若いときには、ひとはだれでも世界を変えたいと思います。でもそれはオルタナティブでありたいという思いとは関係ない。若者は、先行世代を追い出せば業界が変わると考える。でもじっさいにはテレビも新聞もつねに新しいコメンテーターを必要としているし、論壇も文壇もつねに新しい書き手やスターを送り出したいわけです。だから、若い世代が先行世代からポジションを奪ったとしても、業界全体の構造を変えることにはならない。ほんとうはもっと原理的なことを考えなければいけない。でもそこがわからないひとが多かった。

 加えて、彼らの一部が、先行世代からポジションを奪うためにやたらと「おれたち」で結束するのも苦手でした。いまふうにいえば、ゼロ年代の若手論客はじつにホモソーシャルで、「おれたち」以外の人間に対して排他的だった。ぼくはある時期まで彼らの先輩として振る舞っていたのですが、だんだんとぼく自身も排除されるようになり、距離を取るようになりました(ぼく自身のホモソーシャル性への反省は第5章であらためて話しています――ネット公開にあたっての注)。

 いずれにせよ、ゲンロンを創業するまえの2000年代には、まだネットにも期待していたし、若い世代にも期待していた。ゲンロンはそういう空気のなかでつくった。けれども、じっさい組織をつくって運動を始めてみたら、ぼくはどんどんネットにも若い世代にも失望していくようになった。2010年代はぼくにとってそういう10年でした。

本物の人生はべつにある?

 それでも、オルタナティブへの渇望だけは残り続けました。

 さきほど創業時に『朝まで生テレビ!』に出ていたという話をしましたが、それだけではありませんでした。ぼくは大学でもちゃんと職探しに成功していて、2010年から13年にかけて早稲田大学の任期付き教授として働いていました。ちなみにそのときの教え子のひとりが、これからしばしば登場するゲンロンの社員で、いまは取締役になっている徳久倫康(とくひさのりやす)くんです。

 またぼくは論壇でも評価されていて、2010年から11年にかけては朝日新聞の論壇時評も担当していました。これはかなりの抜擢だったと聞いています。加えて2010年には、はじめて書いた長編『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、2009年12 月)で三島由紀夫賞を受賞しました。批評家の小説がプロに評価されることはあまりないので、かなり話題になりました。ひとことでいえば、30代も終わりを迎えて、人生上り調子で、収入も増えていたわけです。

メインストリームに対する居心地の悪さ

 そんななか、娘もまだ小さかったし、会社経営に乗り出す必要はどこにもありませんでした。というか無謀です。最近、妻(ほしおさなえ)によく止めなかったねといったら、止めたけど聞かなかったのだと苦笑されました。

 当時の焦りを思い出すのはむずかしいのですが、ぼくはたぶん、なにか強い居心地の悪さを感じていたんだと思います。メインストリームに対する居心地の悪さです。

 早稲田大学、朝日新聞、三島賞。いずれもメインストリームです。アカデミズム、ジャーナリズム、そして純文学。ぼくが好きなのはオルタナティブであることなのに、いつのまにかメインストリームのど真ん中にいて、世間的な役割も求められ始めていました。それを果たせばお金も手に入るのだろうし、偉くもなるのだろう。でもそれは本物の人生ではないのではないか、という危機感がありました。それこそが、ゲンロンの出発点にあったものです。

(東 浩紀)

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