
2000年当時、会長を務める富士電機株式会社で社会に先駆けた「65歳定年制」導入の英断を下した、実業家の加藤丈夫氏。現在は国立公文書館の館長を務めながら、新聞・雑誌に多くの論文・随筆を寄稿するオピニオンリーダーとしても活躍している。コロナ禍で社会が大きく揺れているが、少子高齢化の問題への対応も急務。何も策を講じなければ、近い将来日本経済が深刻な労働者不足に陥るだろう。日本経済を立て直す秘策について、人事のプロフェッショナルでもある加藤氏にお話を伺った。
取材・文/盛田栄一 撮影/荻山 拓也
有効な少子化対策を打てなかった「平成」
みんなの介護 加藤さんは富士電機の会長だった2000年当時、どこよりも早く65歳定年制を導入し、シニアの新たな働き方を社会に広く提示されました。あれから20年が経ち、わが国の少子超高齢化がさらに進行し、生産年齢人口が減少の一途をたどっています。労働者不足解消のために、今後どのような施策が有効だとお考えでしょうか。
加藤 高齢者雇用をさらに促進することと、女性にさらに活躍してもらうこと。今後の労働者不足を補うためには、この2つの施策に尽きるだろうと考えています。産業界には、「外国人労働者の受け入れをもっと拡大すべきだ」との意見もありますが、その前に国内でまずやるべきことがある。それが高齢者と女性の雇用を拡大することです。
みんなの介護 少子化対策に打つ手はないのでしょうか。
加藤 若者が高齢者より少ない現在の人口構造に変化してしまった以上、今後30年から50年は、この構造とともに社会を運営していくしかないのではないでしょうか。
今思えば、わが国の少子化傾向が明らかになったのは1989年(平成元年)。この年の合計特殊出生率は1.57にまで落ち込み、それまで最低だった丙午(ひのえうま)の1966年(昭和41年)の1.58を下回ってしまった。その後、合計特殊出生率は減少を続け、2005年(平成17年)に史上最低の1.26を記録。その後はずっと1.3〜1.4前後で推移し、2019年の数値は1.36でした。
合計特殊出生率の分母となる15〜49歳の女性の絶対数そのものが年々減少しています。出生数も毎年過去最少を更新していて、昨年は約86万5,000人。第2次ベビーブームだった1973年(昭和48年)のわずか4割にまで減少してしまいました。
平成の30年間、政府は有効な少子化対策を実行することができませんでした。この失われた年月を取り戻すことは不可能でしょう。だとすれば、政府や企業はもちろん、社会全体が一丸となって高齢者と女性の活用に取り組んでいくことが、これからの重要な国策の一つになるはずです。
高齢者雇用であっても「同一労働同一賃金」
みんなの介護 加藤さんが会長を務めていた富士電機では、なぜ定年を5年間延長することになったのでしょうか。
加藤 なにも「特別なことをした」という意識はありません。労働人口の高齢化に定年制度が追いついていなかったので、そのギャップを埋めただけです。
私が富士電機に入社した1961年当時、企業の定年は55歳と決まっていました。その定年が法律で60歳にまで引き上げられたのが1998年。制度上はほとんどの企業で65歳まで働けることになっています。約半世紀かかって、企業の定年が10年間延長されたわけです。
しかし、現在の65歳雇用の実態を見ると、多くの企業では定年を60歳に据え置いたままになっていますね。つまり、60歳定年で一度退社してもらって、「再雇用」という形でさらに雇用期間を5年間延長する形になっている。その結果、給与などの処遇も、正社員だった以前と比べてかなり見劣りする内容になっています。
みんなの介護 スキルや経験値が蓄積されているのに、給与待遇などが下がるのは不思議ですよね。
加藤 はい。こんなことでは、働く本人のモチベーションを維持できないし、その労働力を有効に活用することもできません。高齢者雇用においても、「同一労働同一賃金」の原則は守られるべきだと考えます。そもそも、私は2000年当時から、「65歳まで雇用延長するなら、定年そのものを65歳まで延長すべきだ」と主張していました。
ただし高齢者の場合、体力と働く意欲に大きな個人差があります。「体力に自信があり、70歳、80歳になっても現役で働き続けたい」という人もいれば、「体がしんどいので60歳で定年退職したい」という人もいます。そこで富士電機では労使間で何度も話しあい、最終的に、57歳で個人面談を行って、定年を60から65歳の各年齢を選択できるような「定年制度」へ変更しました。