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人間の安全保障の理論と実践――「誰も取り残されない社会」の実現に向けて - 宮下大夢 / 国際関係論・国際協力論・平和構築論

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はじめに

「人間の安全保障」(human security)という概念が公の場に登場してから四半世紀が経過した。「人間の安全保障」とは、国境を越える多様な脅威から人間一人ひとりの生存、生活、尊厳を確保するための実践に関する規範的な概念の一つである。国際協力や開発援助に関わる人々にはよく知られているが、初めてこの言葉を耳にする人にとっては分かりにくい概念であろう。

しかし、この四半世紀の間に、「人間の安全保障」の理念は国際機関、国家、市民社会・非政府組織(NGO)といったグローバル・ガバナンス(注1)を担う多様なアクター(主体)に受け入れられ、国際協力、開発援助、平和構築、人道支援などの分野で実践されるようになった。

学術的にも、「人間の安全保障」に関する研究は、国際関係論、地域研究、開発研究、人類学、社会学、教育学、公衆衛生などの様々な分野で行われてきた(注2)。そして、近年は「持続可能な開発目標」(SDGs: Sustainable Development Goals)が掲げる「誰も取り残されない社会」の実現に向けて、「人間の安全保障」の視点が極めて重要になっている。

「人間の安全保障」の登場から今日に至るまでに、人間の安全に対する脅威は多様化してきた。グローバル化が進み、人、モノ、カネ、情報が国境を越えて移動する相互依存が深まった21世紀の世界では、人間の安全に対する脅威もまた国境を越えて相互に関連し合い、人々に深刻な影響を及ぼしている。具体的には、貧困、紛争、国際テロリズム、感染症、自然災害、環境破壊、経済・金融危機といった数多くの脅威が存在する。

例えば、開発途上国の貧困率は減少してきたが、現在も世界の約10人に一人は1日1.90ドル以下で暮らす絶対的貧困層である。また、日本をはじめとする先進国では国内の格差が拡大し、相対的貧困層が増加している。さらに、世界の難民・国内避難民の数は第二次世界大戦以降最多を更新し続けており、2019年末時点で約8,000万人となった。そして、近年は世界各地で気候変動に起因する自然災害も急増している。加えて、国境を越えて急速に感染が拡大する感染症の脅威が認識されるようになった。

現在進行中の新型コロナウイルス(COVID-19)の世界的流行は、単なる「健康の危機」ではなく「人間の危機」と呼ばれる危機的な状況を生み出している(注3)。その影響で数百万人が貧困に逆戻りしつつあり、これまでのSDGsの取り組みの大幅な後退が懸念されている。

本稿では「人間の安全保障」の四半世紀を振り返り、同概念がどのように国際規範の一つとして発展してきたかを整理しながら、その定義や意義を説明する。その上で、21世紀の世界に存在するグローバルな脅威に立ち向かい、SDGsが掲げる「誰も取り残されない社会」を実現する上で、なぜ「人間の安全保障」の視点が必要であるかを論じる。

筆者はNPO法人「人間の安全保障」フォーラム(HSF: Human Security Forum)の事務局長として、高須幸雄理事長(国連事務総長特別顧問・人間の安全保障担当)をはじめとする数多くの関係者と共に「人間の安全保障」の推進事業に取り組んできた。本稿は「人間の安全保障」フォーラムの活動を紹介しながら、「人間の安全保障」に関する包括的な議論を行うものである。

「国家の安全保障」から「人間の安全保障」へのパラダイムシフト(革命的転換)

「人間の安全保障」の起源については諸説あるが、1994年に国連開発計画(UNDP)が発行した『人間開発報告書』で初めて公に取り上げられた(注4)。同報告書によれば、安全保障(security)という概念は、「他国の攻撃からの国家の安全保障」、「外交政策における国益の確保」あるいは「核戦争の脅威からの国際安全保障」のように、人間一人ひとりではなく、国家に関わるものとして長期に渡り狭義に解釈されてきた。

現実の国際政治の舞台では、「国家の安全保障(national security)」こそが最重要の高次元の問題(ハイポリティクス)であり、経済や福祉に関する問題は優先順位の低い低次元の問題(ローポリティクス)であるという認識が長らく支配的だった。第二次世界大戦で展開された凄惨な総力戦を踏まえれば、そうした戦争の脅威と隣合わせにあった冷戦期には、国家の生存の確保が至上命題となったのは必然の結果だったのかもしれない。

しかし、冷戦戦終結後に公表された同報告書では、「安全保障」について従来の常識を覆す、革命的ともいえる新しい見解が示された。すなわち、冷戦期に米ソによる際限のない開発競争が行われた核兵器を筆頭とした、軍事力によって達成される国家の安全保障ではなく、むしろ開発によって人間一人ひとりの安全を保障することの重要性を論じたのである。

同報告書執筆チームのリーダーであったマブーブル・ハクは、安全保障を人間一人ひとりの安全に関わる問題として再提示し、軍事力ではなくて開発によって、それが達成されることを強調したのである。これは「国家の安全保障」から「人間の安全保障」へと、安全保障概念のパラダイムシフトを志向した新たな試みであった。

実際、国際政治において最も影響力を持つ大国ではなく、それまで大きな注目を集めてこなかった開発途上国に目を向けると、日常生活を送る一般の人々は、疾病、飢餓、貧困、犯罪、紛争、政治的抑圧、環境破壊といった脅威に晒されている。それゆえ、安全保障の概念は「非包括的な国家の安全保障から人々の安全保障を重視し」、「軍事力による安全保障から持続的な人間開発による安全保障へ」と直ちに変化しなければならない、と論じたのである。

そして、「人間の安全保障」の構成要素として、経済、食料、健康、環境、身体、共同体、政治的自由の七つを挙げ、基本原則として普遍性、相互依存、早期予防、人間中心(people-centered)の四つを提示した。

「人間の安全保障」規範の発展と確立

新しく登場した「人間の安全保障」概念の反響は極めて大きく、国連を中心的な舞台に、これに関する様々な議論が展開し、規範の普及活動や編集作業が行われるようになった。とりわけ、1990年代後半から「人間の安全保障」の積極的な普及活動を行った国の一つが日本である。当時の小渕恵三首相はアジアの21世紀を「人間の尊厳に立脚した平和と繁栄の世紀」するために、「人間の安全保障」を重視することが必要であると考えていた(注5)。

こうした意思を持つ小渕のイニシアティブによって、多様な脅威に取り組む国連機関の活動の中に「人間の安全保障」の考え方を反映させ、人間の生存、生活、尊厳を確保していくことを目的とする「人間の安全保障基金」が1999年に国連に設置された(注6)。そして、日本政府は「人間の安全保障基金」に対して、1999年から2019年末までに約468億円を拠出してきた。

2000年に開催された国連ミレニアム・サミットでは、コフィ・アナン国連事務総長が「人間の安全保障」の重要な柱である「恐怖からの自由」(freedom from fear)と「欠乏からの自由」(freedom from want)を実現することを国際社会に要請した。この要請を受けて、急死した小渕の後を継いだ森喜朗首相も「人間の安全保障」を外交の柱に据えることを宣言し、また「人間の安全保障」のための国際委員会を発足することを提示した(注7)。

こうして日本政府のイニシアティブで、国連難民高等弁務官として人道支援の最前線で活動してきた緒方貞子と、ノーベル経済学賞の受賞者であるアマルティア・センが共同議長を務める「人間の安全保障委員会」(以下、緒方・セン委員会)が2001年に設立された。そして、「緒方・セン委員会」は2003年に最終報告書『安全保障の今日的課題』を公表した。

同報告書では、「人間の安全保障」とは「人が生きていく上でなくてはならない基本的自由を擁護し、広範かつ深刻な脅威や状況から人間を守ること」であり、また「人間に本来備わっている強さと希望に拠って立ち、人々が生存・生活・尊厳を享受するために必要な基本的手段を手にすることができるよう、政治・社会・環境・経済・軍事・文化といった制度を一体としてつくり上げていくことも意味する」と説明された(注8)。

加えて、国家の安全保障を補完する「人間の安全保障」の特徴として、次の四つを提示した。第一に、国家よりも個人や社会に焦点を当てる「人間中心」の考え方である。第二に、 軍事力によって国境を守るのではなく、環境汚染、国際テロリズム、大規模な人口の移動、感染症、抑圧や貧困までの多様な「脅威」を視野に入れる。第三に、国家だけではなく、国際機関、地域機関、市民社会・NGOなどの多様な「主体」が役割を担う。第四に、保護(protection)とともに、人々が自らを守るための「エンパワーメント(empowerment,能力強化)」が必要である、以上の四つである。

これ以降、「人間の安全保障」の理念は国連に代表される国際機関、欧州連合(EU)やアフリカ連合(AU)などの地域機関、各国政府、市民社会・NGOといった多様な主体に受け入れられ、脆弱な立場に置かれている人々を支援する現場での実践に反映されるようになった。上記の「緒方・セン委員会」の普及活動によって、国際社会における「人間の安全保障」に対する関心がいっそう高まったのである。

そして、学術的にも「人間の安全保障」が注目を集めるようになった。国際協力や開発援助だけでなく、人類学、社会学、教育学、公衆衛生などの様々な分野で「人間の安全保障」に関する研究が行われるようになる。例えば、日本国内では、2004年に東京大学が文理横断の大学院教育プログラムとして、大学院総合文化研究科に「人間の安全保障」プログラム(HSP: Human Security Program)を設立した。

HSPの目的は「一人ひとりの人間が安心して生活できる平和な社会を追求する『人財』を育てること」である。HSPの教員と学生の有志が中心となり、「人間の安全保障」の推進事業を行うために2011年に設立した組織がNPO法人「人間の安全保障」フォーラムである。また、同年9月には、「人間の安全保障」の学際的な研究を促進し、その実践的な要請に応えることを目的として、学術団体「人間の安全保障学会」が設立された。

ところで、「人間の安全保障」から派生した概念に「保護する責任」(R2P: Responsibility to Protect)がある(注9)。これは日本と同時期に、「人間の安全保障」を外交の柱に据えたカナダの働きかけによって、2001年に「介入と国家主権に関する国際委員会」が提唱した概念である。日本は「人間の安全保障」の柱のうち「欠乏からの自由」を重視したが、カナダは「恐怖からの自由」を重視した。「人間の安全保障」は国境を越える多様な脅威から人々の安全を確保することを目的とするが、R2Pは1994年のルワンダの大虐殺のような大規模な「人命の喪失」や「民族浄化」から人々を保護することを目的に提唱されたものである(注10)。

しかし、人命保護のための軍事介入を許容するR2Pについて、植民地支配を経験した開発途上国の多くは、大国が内政干渉を正当化するための道具として用いるのではないかとの危機感を抱いた。それゆえ、「欠乏からの自由」を重視する日本は、「人間の安全保障」を普及する上での足かせとならないよう、「人間の安全保障」とR2Pは異なる概念であるという見解を主張し、国連加盟国の理解が得られるように説得を行った(注11)。

その結果、2005年に国連で開催された世界サミットでは、「人間の安全保障」とR2Pはそれぞれ異なる概念として峻別された。R2Pについては、ジェノサイド、戦争犯罪、民族浄化、人道に対する罪から人々を保護するために、平和的手段に加えて、国連憲章第7章に基づく集団的行動、すなわち強制的な軍事介入を実施する用意があることがサミットの成果文書に明記された。これに対して、「人間の安全保障」については以下のように明記された(注12)。

「我々は、人々が、自由に、かつ尊厳を持って、貧困と絶望から解き放たれて生きる権利を強調する。我々は、全ての個人、特に脆弱な人々が、全ての権利を享受し、人間としての潜在能力を十分に発展させるために、平等な機会を持ち、恐怖からの自由と欠乏からの自由を得る権利を有していることを認識する。このため、我々は、総会において人間の安全保障の概念について討議し、定義付けを行うことにコミットする。」

その後国連では、日本の国連代表部(注13)の主導により、2006年に「人間の安全保障」を推進する有志諸国の非公式なネットワークである「人間の安全保障フレンズ」が結成された。さらに、「人間の安全保障フレンズ」の要請に基づき、2010年に「人間の安全保障」に関する初の国連事務総長報告書が作成された(注14)。

そして、2012年の国連総会では「人間の安全保障」の共通理解についての合意がなされた。その中で、「人間の安全保障」はR2Pとは性質が異なり、武力による威嚇、武力の行使、または強制手段を伴わないことが再確認された(注15)。こうして「人間の安全保障」とR2Pをめぐる長い論争に終止符が打たれたのである。

他方、同時期に「アラブの春」の後に深刻な人道危機が発生したリビアやシリアに対する国際社会の対応を踏まえて、R2Pの履行手段として先進国が実施する軍事介入には様々な問題が存在することが指摘された(注16)。R2Pについては、政所大輔氏が本連載シリーズ別稿で詳しく取り扱う予定のため本稿では細部には踏み込まないが、R2Pもまた国連を舞台に実施に向けた概念の精緻化が行われてきた。

しかし、深刻な人道危機から人々を保護するために行動する必要があることについては国際社会の合意が得られたが、どのような手段を用いるかについては今なお論争が続いている状況である(注17)。

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