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希望無き社会の果てに

写真AC

渋谷区で起きた許されない事件

東京都渋谷区でホームレスとみられる64歳の女性が頭部を殴られ死亡した事件で、46歳の男が傷害致死容疑で逮捕された。警察の調べに対し、男は「バス停付近で女性を何度も見かけた」「痛い思いをさせれば、女性がバス停からいなくなると思った」(*1)「場所を移動してほしいと話をしたが、らちが明かなかった」(*2)などと供述しているという。

女性は2月頃まで杉並区のスーパーで働いていたようだが、仕事と住処を失ってホームレスになったようだ。女性は夏頃からバス停で見かけられるようになり、午前1時過ぎから午前5時くらいまでずっと座って、仮眠などをとっていたという。(*3) 一方で男は実家の酒屋で母親と二人暮らし、家業を手伝っていたという。報じられている内容(*1)によると、就職先で上手くいかなかったことから、店を手伝うようになったようだ。

引きこもり気味の46歳が、住むところを失った61歳の女性に暴行を加える。もしこれが創作だったら「貧困問題を語る気満々で作ったご都合主義的設定」としてボツを食らうだろう。しかし、現実は小説より奇なりとばかりに、こんな事件が発生してしまう。

男は「自宅のバルコニーから見える世界が自分の全て。景色を変えたくない」と、アンテナの位置を変えるよう、近所の人に求めるなどをしていたようだ。(*1) 仕事終わりの道すがらの景色も、男にとっては変えたくない景色だったのだろうか。

その気持ちはなんとなく分かる気がする。

幸福な人生を歩んでいる男性にとって、変化は様々な意味を含んでいる。子供の成長や社内での昇進といったうれしいこと。単身赴任や出向といったやりがいのある困難。また死別や離婚といった苦悩もあるかも知れない。

しかしその一方で、社会的に上手くいかなかった人にとっての変化とは、そのほとんどが苦悩である。今が最良で悪い方にしか変わっていかない。変化は恐怖の対象となってしまうのである。

誰もが男のような立場になる可能性はある

男は46歳と言うことで、僕の1つ上である。

このくらいの年齢になると、老いを実感し、かつては無限にあったはずの未来の風景がどんどん狭まっていくことを感じる。一方で外の景色は、新しい方へ新しい方へ、自分を置き去りにして抗いようもなく変化していく。男が自分の現状を不満に思っていたのであれば、そうした変化を押しとどめたいと考えてもおかしくはない。

僕から見れば男は十分に羨ましい立場にいる。都心に実家を持ち、家業もあってかなりの安泰を約束されている。しかしそれは結局のところ男が自らの努力で手に入れたものではなく、昔からそこにあったものでしかない。自分の力で切り開く事のできなかった人生の中に閉じ込められることは、一種の牢獄でもある。

そしてそれは、一時的に自分たちの人生を得たように思える人でも、行き詰まって切り開けなくなった途端に陥る隘路でもある。幸せな生活を送っていたはずの人が、ふと生活に窮屈さや退屈さを感じ始め、やがて生きる価値を見いだせなくなるというのは、実にこの世の中にありふれた不幸ではないだろうか。

我々だって、いつこの男のように、自分の望んだ過去の風景に囚われてしまう日が来るのか分からない。一生懸命生き抜いた果てに、残されたのは過去の美しい思い出だけなどということは、珍しくもないのだから。

それだけに、そんな男が殺してしまったのが、辛い境遇にある、ホームレスの女性だったというのがいたたまれない。

たとえ望んだものではなくても、安定した仕事と住宅を親から与えられていた「幸運な」男性とくらべて、ホームレスになるしかなかった女性の絶望はいかほどのものであったか。彼女は周囲の家々で、暖かい寝床で眠る人たちをどう思っていたのだろうか。彼女に見えたバス停からの景色はどのようなものであったのか。

「自己責任」社会の果てに

このまま情緒的な記事で終わらせてもいいのだが、どうしても1つだけ記しておかなければならないことがある。

確かに最終的に女性に危害を加えたのは46歳の男である。しかし、女性を毎晩、バス停に座るしかない状況に追い込んだのは誰だったのか。男以外の人間は彼女を「殺さなかっただけ」ではないか。

深夜にバス停に座るしかなかった彼女は、すでに社会的には抹殺されていた。透明な存在にされていた。多くの人が彼女をただのホームレスとして見て見ぬ振りをして通り過ぎる中で、容疑者男性には彼女の姿がしっかり見えたのだろう。そこに見たのは「自分の景色に入り込んだ異物」であったのか。それとも「いずれ落ち行く自分の姿」だったのか。

ただ、男が想像することができなかった彼女の姿がある。

それは「笑顔を取り戻して、かつてじっと座るしかなかったバス停を通り過ぎる彼女の姿」である。

だが、そんな彼女の姿を想像できないのは、大半の日本人も同じである。今の日本社会は年老いてホームレスになってしまった人が、苦境から脱し、安定的な生活を送れるようになるなんて夢を見られるような社会状況にない。「一度落ちたものは無視して放っておけ」「自己責任」「公助に頼るな、自助でなんとかしろ」が今の日本社会である。

そんな日本社会では、変わる景色が辛い方にしか変わらないと感じるしか無い人たちが増えるのも当たり前である。そのような社会であることが、今回の事件を産んだのかも知れない。すべての人が変わる景色に希望を見いだせるような社会を達成しない限り、今後もこうした悲しい事件は続くのだろう。

*1:渋谷殴打事件で容疑の46歳男逮捕 母とともに清掃ボランティアも近所トラブル絶えず(東京新聞)https://www.tokyo-np.co.jp/article/69867
*2:渋谷バス停で女性殴られ死亡 「場所移動してと…」(テレビ朝日)https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000199133.html
*3:渋谷路上生活者死亡事件 所持金わずか8円の女性が襲われた「22センチ」のバス停ベンチ(AERA)https://dot.asahi.com/aera/2020112200008.html

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