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脱政治化の時代の政治 吉田徹

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原発の再稼動をめぐって、政府と原子力規制委員会との間の綱引きが続いた。前者は、再稼動の判断を規制委員会と事業者に求め、後者は自身のミッションは安全性に係るもののみであり、稼動そのものについては政府と事業者が判断すべきとの立場を崩していない。

 差当たり、ここではどちらの立場と主張が正しいのかという判断は下さないでおこう。問題は、こうした政治と、一見政治の外部の存在する専門家集団との間の境界線はなぜ、いかに引かれるべきなのか、という問いにこそあるからだ。



■専門家と政治


 現代では、エネルギー政策のみならず、経済政策やIT政策から犯罪対策まで、いわゆる「専門家」の介在と介入がなければ、政策が存立しない状況になっている。正確に言えば、時代で大きな断絶的な危機が生じた場合、歴史的にみて専門家の介入が養成されるようになってきた。例えば、1930年代の経済恐慌に際してはフーヴァー大統領および後任のルーズヴェルト大統領のもとに多くの専門家が招集され、ニューディール政策の原型を作っていったし、同時代のヨーロッパでもファシズムと社会(民主)主義に共通する「社会計画主義」には、当時の専門家たちの主張が反映された。そればかりか、フランスやイタリアの戦後復興のための社会経済政策は、戦中のファシスト政権のテクノクラート等の手によって実現されたのである。



こうした現代と過去に共通する事例や政策については、最近、日本でも「専門性と政治」という視角から紹介されるようになった(内山・伊藤・岡山編『専門性の政治学』2012年、久米編『専門知と政治』2009年など)。

 原発再稼動をめぐる政府と専門家委員会との間の軋轢にみられるように、問題は「民主政治」の境界線、すなわち有権者の代表たる政府・議会と専門家が責任を負う範囲としてどのようなものが妥当なのか、そして何を根拠にその線引きがなされるべきなのか、また仮に専門家が第一義的な政策決定主体となる場合、その場合の応答・説明責任はどのように担保されるのかといった点であろう。

確かに、近代においては官僚制を抜きにして様々な政策形成や履行は考えられない。しかし、形式的には少なくとも、官僚機構は行政府のもとにコントロールされる制度設計がなされている。しかし、膨大化する政策アジェンダを前に、官僚機構もまた、専門家・専門知に依存せざるを得ない。そして、こうした専門家による規制やコントロールは、アドホックでルーズであることを存在根拠とするから、制度的な保証が難しいのを特徴としているのである。

言い換えれば、ある政策アジェンダや争点があったとして、何が「政治化」され、何が「脱政治化」されるのかという視点でもって、政治と専門家集団の関係を捉えるのが適切であるといえる。そして、現代においては、専門知が有形無形に「政治化」されていた20世紀前半までの時代と異なり、むしろ「脱政治化」されていっている点に特徴があるのだ。



■「脱政治化」のプロセス

ここでは、コリン・ヘイ著『政治はなぜ嫌われるのか――民主主義の取り戻し方』(11月9日発売、岩波書店刊)での議論を手掛かりに問題を考えてみたい。ヘイは「政治化」を「ある争点が闘技と意思決定、作為の対象となること」と定義した上で、それは私的領域→公的領域→政府領域という3つの段階を経るプロセスのことだとする。例えば、ジェンダー差別や児童虐待は、少なくとも1970年代まではかなりの程度、私的領域の場に留まってきた。それが時代を追って、公的領域、そして政府領域にまで「政治化」されることになったのである。

反対の「脱政治化」は、逆向きに作用する。それは「公式的な政治の対象や討議対象、責任とされてきた争点が、公的ではあっても非政府領域へと格下げされる場合」のことである。もっともも解り易い例は、経済政策、中でも金融政策である。先進国では1990年代前半(日本では90年代後半)に、おしなべて中央銀行の独立性が法的・制度的に保証され、政治家・政党・議会からの介入に対する制度的な防御壁が確立された。投票権は当然ないものの、経済閣僚の金融政策に関する意見陳述や経財相が日銀決定会合に出席すること自体がニュースになるのは、こうした経緯があるからである。

中銀の独立性が保証されるようになったのは、いわゆる「政治的ビジネス・サイクル」の回避、つまり政治の介入によって金融政策(とりわけインフレ水準)がいじられるのを避けるためである。政治家や政党は選挙が近づくと、自身の当選可能性を高めようとインフレの選好を高める。こうした政治圧力から脱し、市場からの信頼を得るために中銀の独立性は確保されることになったのである(もっともヘイの議論によれば、そもそもこうした前提そのものにも誤謬がある。まず、独立性とインフレ率の間に有意な相関関係はなく、また金融オペレーションの独立性と中銀の独立性は切り離されて論じられるべきだからだ)。 

同じように、環境政策も「脱政治化」される過程にあるとみていいだろう。様々な形で「環境に優しい」行動が推奨される一方で、政府や公的機関が権威的な環境規制から撤退すれば、環境の維持は企業と消費者の行動に一任されることになる。結果としてはびこるのは「グリーン・ウォッシング」のような現象だ。このように、現代では様々な政策領域が、「脱政治化」され、その結果として、主権者に一義的な応答・説明責任によらない、専門知の介在が許容されることになっていく。



■転換点はどこにあったか

ヘイは、こうした現代の「脱政治化」のプロセスの起点を1980年代の新自由主義に求めている。確かに、例えばサッチャー政権などをみても、とりわけその経済政策は保守系シンクタンクの知的影響力によって実現していったといえる。但し、ヘイはこの時代を「脱政治化」が政治的戦略によって(「政治化」を経由して)なされていった「規範的な新自由主義」であると規定し、90年代以降の現在は、こうした脱政治化プロセスがむしろ当然のことと捉えられるようになった「常態化した新自由主義」の時代にあると診断している。

問題は、もし政治の側が自覚的に、責任回避戦略として「脱政治化」を行っているならまだしも、もしこれが政治家・政党・有権者の自らの責任能力のなさの証明として実現されていくとしたら、失われるものは、政治そのものによって決定できる能力そのものであることにある。

この「常態化した新自由主義」が抱える最大の問題は、構造的に「脱政治化」が達成されてしまうことにある。もし「脱政治化」そのものが政治的な争点・選択肢のひとつとして提示されるのであれば、専門知は民主政治のコントロール下にあるとみなすことができる(「規範的な新自由主義」はまたそうした契機でもあった)。しかし、「常態化した新自由主義」は、政治を形成するアクター(政治家、政党、官僚、有権者)全てが「脱政治化」そのものが政治経済の効率性を高めるとの合意のもとで行われるから、争点として提示されることが難しくなるのである。いわば、政治そのものの領域が縮小していっているにも係らず、それが縮小していることを認知するのが極めて難しい状況だと言い換えても良い。そのような文脈で、専門家そのものを非難すること、ましてや専門知そのものを無用だとしても、それは限りなく非生産的である。

さらなる問題は、一端「脱政治化」された政策領域は、再度「政治化」するのに多大なコストがかかることである(日本の原発政策がそうであったように)。「脱政治化」は、ある意味、政府・公的領域にある責任と権限を下位領域に「移譲」することでなされるため、簡単に行うことができる。しかも、高度に技術的な政策領域については、メディアや有権者の関心を集めることもないから、ステルスな権限委譲がなされる。これに対して、「脱政治化」された政策領域を、再度「政治化」するには、そこに蓄積されていく専門知を覆すだけの論理と政治的権力がなければ、達成することが難しくなるためだ(繰り返しになるが、日本の原発政策がそうであるように)。



■「もっと光を!」(ゲーテ)

「より良い統治とは、より少ない統治のこと」――トマス・ジェファーソンのこの言葉は、本来は政治に対峙する社会の側の自律性を掲揚するものと解釈されるべきなのだが、現代では、むしろ「脱政治化」によって「より少ない統治」が実践されていっている。その結果として、生じるのは、冒頭に紹介した原発再稼動の事例のように、政治が縮小してしまったことによる負の外部性とでもいうべき事態である。

「生産(production)」という言葉は、もともと「白日の下に晒す(producere)」というラテン語に由来する。そうであるならば、ゲーテの臨終の言葉ではないが、現代における政治権力は、光を当てることによって可視化される対象としてだけではなく、むしろ「生産」するものとして、そしていかに「生産」していくべきものかとして再び捉えられるべきである。方向性は異なれども、「熟議民主主義」と「ポピュリズム」という形で、権力の「再生産」のプロセスも足元で始まっているが、その行方は定かではない。そして「一見、公正にみえるゲームが、実は、構造的に無意識のうちで行われているイカサマではないのか、そしてエスタブリッシュされた政治学はこのイカサマを見抜けないでいるのではないのか」(川崎修『「政治的なるもの」の行方』)という問いを内在させている批判的な政治学が果たすべきガイドとしての役割も、そこら辺にあるはずである。

(本文は、2012年9月8日に行われた科学コミュニケーション研究会年次大会での講演内容を大幅に改訂したものです)

吉田徹(よしだ・とおる)/記事一覧1975 年生まれ。慶應義塾大学法学部卒、日本貿易振興機構(ジェトロ)を経て東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。現在、北海道大学法学研 究科/公共政策大学院准教授、仏EHESS連携研究員およびニューヨーク大学客員研究員。専攻はヨーロッパ比較政治、フランス政治史。著作に『ミッテラン 社会党の転換』(法政大学出版局)、『二大政党制批判論』(光文社新書)、『ポピュリズムを考える』(NHKブックス)、編著に『ヨーロッパ統合とフラン ス』(法律文化社)など。 

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