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菅義偉、岸田文雄…20年前は“造反組”だった有力議員たち いま、あの「加藤の乱」を振り返る 11月20日は“加藤の乱”の日 - 近藤 正高

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 2000年11月20日、衆議院本会議で野党が内閣不信任案を提出し、採決が行なわれた。当時の首相・森喜朗は、同年4月に脳梗塞で倒れた小渕恵三に代わってその座に就いたものの、あいつぐ放言、さらには閣僚の不祥事もあり、秋になると内閣支持率は20%を割る危険水域に入っていた。野党の不信任案提出はこれに乗じたものであった。

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加藤紘一 ©文藝春秋

 このとき、自民党内でも加藤紘一が盟友の山崎拓とともにそれぞれ派閥を率いて、不信任案に賛成票を投じようとした。加藤はその意思を、さかのぼること11日前の11月9日、マスコミ幹部や政治評論家の集まる懇談会で表明。

 散会後、記者団に取り囲まれると、「国民も入れての、大きな長いドラマの始まりじゃないでしょうか」と宣言していた。いわゆる「加藤の乱」はこうして幕を開けた。この動きに多くの国民が期待を寄せることになる。

野中広務幹事長による加藤・山崎派の切り崩し

 加藤は野党・民主党との連携もほのめかしたため、政界再編も予想された。

 しかし、ふたを開けてみれば、この造反は成就せずに終わる。それというのも、自民党幹事長の野中広務(当時)が党分裂を避けるべく、加藤・山崎両派の切り崩しに全力を挙げたからだ。

 野中は造反する議員に対し、選挙での党の公認剥奪や除名をちらつかせるとともに、加藤派の幹部である古賀誠に働きかけて派閥内部からの分断工作を図った。こうして20日の不信任案採決の当日には、加藤と山崎への同調者は可決に必要な50人に届かないことが判明する。

 採決が始まったころ、加藤と山崎と同調する両派の議員たちは議場には入らず、都内のホテルに集まっていた。加藤は同調者たちを前に、いまから自分と山崎だけでも不信任案に賛成票を投じると告げたものの、ほとんどの者に止められた。このとき、加藤派の谷垣禎一が「あんたは大将なんだから、1人で突撃なんてだめですよ」と涙ながらに引き止める様子は、その後テレビでも繰り返し流された。

 それでも加藤は周囲の制止を振り切り、山崎とともにハイヤーで国会に向かった。しかし、いざ到着すると逡巡してホテルに引き返してしまう。山崎によれば、加藤とは結局、2度、国会に向かっては引き返し、3度目に彼から「行こう」と言われたときには「いや、俺はもう行かん」と突っぱねたという(※1)。3度目の正直で、ひとりホテルを出た加藤だが、このときも議場には行かないまま戻ってきて、それきりとなった。

 話は前後するが、国会に行こうとする加藤を谷垣ら同調者の多くが止めるなか、1人の議員が《行きましょう。ここまで来て、行かなきゃ国民に見離されますよ。勝ったって、負けたって関係ないから、闘いましょう》と語りかけていた(※2)。それは誰あろう、当時、加藤派に所属した現首相の菅義偉である。菅はこのとき衆院議員になって4年、2期目に入ったばかりだった。

実は“造反側”にいた後の有力議員たち

 あらためて思い返すと不思議なことに、「加藤の乱」で造反側に回ったなかには、谷垣、菅とのちの自民党総裁がいたことになる。このほかにも、今年の総裁選で菅と争った元外相の岸田文雄(当時、加藤派)や、小泉純一郎政権で幹事長を務めた武部勤(同、山崎派)など、のちの党の実力者たちも造反に参加していた。加藤と山崎も含めて彼らが自民党にとどまれたのも、「加藤の乱」のあとで野中や古賀たちがとくに処分を行なわなかったからである。

 野中は、橋本龍太郎政権時に幹事長を務めた加藤を幹事長代理として支えるなど、もともと加藤とは関係が深かった。リベラル寄りの政治信条からして、森より加藤にずっと近い。古賀もまた加藤には将来に期待をかけていた。それだけに、党のために加藤の動きを封じなければいけなくなったときには、2人して泣いたという(※3)。

 野中は「加藤の乱」を鎮圧したあと、森に対しても「不信任案の否決はけっしてあなたの信任を決定したものではない」と諌めた。だが、これに森が怒っていたと聞き、幹事長をやめるにいたった。

 野中や古賀だけでなく、反旗を翻された側の森も、じつは自分の後継者にひそかに加藤を考えていたという(※4)。だが、加藤は焦ったためにそのチャンスを逃してしまったことになる。

 森内閣の支持率は「加藤の乱」のあとも低迷を続け、翌2001年3月に森は退陣を表明。後任を決める自民党総裁選では、小泉純一郎が国民の高い支持を背景に勝利を収める。「加藤の乱」が不発に終わったあとも、新たなリーダーを求める人々の思いが小泉政権を生んだといえる。

 その後、加藤は2002年に秘書の脱税事件などの責任をとって議員を辞職、翌年の総選挙で返り咲いたものの、自民党が民主党から政権を奪還した2012年の総選挙で落選。そのまま政界に復帰することなく、2016年に77歳で亡くなった。

 野中も、小泉政権の姿勢に疑問を抱いて2003年に政界を引退、自民党内でのリベラル派の凋落を嘆きながら2018年、92歳で死去した。

「加藤の乱」が失敗に終わった背景には、1994年に導入された小選挙区制の影響も大きい。かつての中選挙区制の時代には、自民党は常に単独過半数の確保を目標としたため、各選挙区で必ず複数の当選を目指して多くの公認候補を擁立した。そのなかで党内の各派閥はしのぎを削った。

 しかし、小選挙区制が導入されると、1つの選挙区につき各党が公認する候補は1人だけとなる。そのため派閥の選挙応援よりも、党の公認の重みが増した。「加藤の乱」は、自民党の中枢が選挙での公認権を切り札に議員を従わせた最初のケースであり、派閥秩序の衰微があきらかになった。

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