必要なしくみの一つは、自然を汚染・破壊したり、自然の回復力を損ねる活動を行なった人・企業に対して、自然を修復するために必要な費用や、被害を受けた人々への補償の費用を支払わせることです。これは「汚染者負担の原則」と呼ばれます。この原則を徹底すれば、人や企業は自然の汚染・破壊に伴う費用負担を避けるために、それらを防止するとりくみを行うようになります。そのほうが負担する費用が少なくてすむからです。(同前)
もう一つのしくみは、自然の回復力を維持したり高めたりする活動を行なっている人や企業に対しては、その活動に対する対価を支払うことです。(同前)
多羅尾はこのようなしくみは、「資本主義という制度の下では大変困難であると、私は思います。なぜなら、資本主義では生産手段が資本家に私有されており、生産の目的は利潤を獲得することにあるからです」とする。
多羅尾は、
「プラネタリー・バウンダリー」を越えない社会の在り方を求めるならば、生産の仕組み(生産関係)を根本から見直す必要があるのではないでしょうか。すなわち生産手段を資本家から人々の手に移し、生産を人々の共同で民主的に管理する経済の在り方が、いずれは求められると思います。(同前)
と結論づける。
社会の大きな枠組みに向かわない限り、本当に問題は解決しないのだとする。それは資本主義制度にまで及ぶのだ。娘の「環境新聞」はそこまで考えねばならなかったのかもしれない。別に娘が資本主義を乗り越え社会主義を、と書かなくてもいい。問題はそういうことがいいかどうかまで思考が及ぶことなのだ。
社会主義の可能性を考えることがイデオロギー教育なのではない。社会の大きな枠組みに目を向けさせないようにすることが、実は立派なイデオロギー教育であるということだ。
*1:例に挙げたこの2つの命題が正しいかどうかはおいておこう。