- 2020年11月10日 11:36
「スポーツには多種多様な勝ち方があっていい」世界ゆるスポーツ協会・澤田智洋さんに聞く - 「スポーツぎらい」第4回
1/2この連載は、6人に1人(※スポーツ庁調べ)いると言われている「スポーツぎらい」な同胞の思いを勝手に背負い、専門家の方々の力をかりながら、われわれをスポーツぎらいにした「犯人」を捜していく反体育会系ノンフィクションである。部活動? 体育教師? 体育会系のおじさん? ナショナリズム? ジェンダー? 「犯人」はいったいどこにいるんだろうか。
今回は「世界ゆるスポーツ代表理事」の澤田智洋さんに話を聞いた。コロナ禍の影響もあり、ZOOMによるインタビューである。
澤田さんの新刊『ガチガチの世界をゆるめる』(百万年書房)が発売中。
澤田さんが代表をつとめる「世界ゆるスポーツ協会」の考案した「ゆるスポーツ」は、とにかくユニークだ。乱暴に扱うとボールがオギャーと泣く「ベビーバスケットボール」や、手がツルツルになるのでボールを落としてしまう「ハンドソープボール」……。
とっても面白い。でもよくよく考えてみると、今までのスポーツが競ってきた「より速く、より高く、より強く」の価値観を根底からひっくり返すような企みなのではないか。
しかも澤田さんの著作を読むと、「大のスポーツ嫌いだった」と書いてある。これは話を聞くしかない。
「大のスポーツ嫌い」が「スポーツ好き」に
—— 澤田さんとスポーツとの関係性について教えてください。
ぼくは喘息持ちだったこともあり、身体は強くないし、足も遅いタイプでした。でも運動神経抜群の年子の弟がいて、彼は学年で一番足が速い。小学2年生のころの運動会で、弟はリレーのアンカー、ぼくは徒競走でどんくさい感じ。何百名も見ている場所で比べられて、そこからスポーツは引退しようと思いました。

—— 引退が早いですね(笑)。
あと、小学5、6年生のころにT君という同級生がいて、彼も足が速い。なおかつイケメンでした。彼はヒーローで、朝の会から終わりの会まで、スポットライトがいつも当たっている。日陰にいた僕は、虎視眈々といつ引きずり落とせるか考えていました。足が速くても、大人になって年収が上がるわけでもない。それなのになぜ、人気があるんだろうと。
でもたぶん、T君はそのまま上昇気流にのって、いい大学へ行き、いい企業に入って、結婚して、大型犬とか飼って、素晴らしい余生を送るのだろうなと思っていました。一方でぼくは、地味な大学、地味な会社に勤めて、日陰の人生を歩むのだろうなと。
つまり、スポーツが出来るか出来ないかによって、幼い自分にそれだけの影響を及ぼした。体育が出来ないだけなのに、自分が全否定され、自分の将来の可能性も否定された気持ちになった。今でもお酒が深く入ると、「T君が憎い……」と話してしまう(笑)。
—— それほど根深いものであると(笑)。ではスポーツは嫌いですか?
嫌いでした。32歳までは、「世界で一番嫌いなのはスポーツ」と周りにも言ってました。
でも、ゆるスポーツをはじめてからは大好きになりました。傷を癒すことができたんです。今はスポーツを楽しむ日々で、週に5回、10キロずつ走っています。
—— えっ! 10キロも!
なんだ、ぼくって体育が苦手なだけで、スポーツは好きなのだと。
スポーツぎらいの犯人は、明治政府と昭和!?
—— すごい変化ですね。澤田さんが言う「体育」と「スポーツ」にはどのような違いがあるのでしょうか。
ゆるスポーツをつくる前に、世界のスポーツの歴史を調べました。日本にスポーツが入ってきたのは明治以降。当時は外来語をどう訳すのかについて論争されていた時代で、スポーツについても同様でした。スポーツ(sports)の語源、Disportには、荷を降ろしたり、なにかから解放するような意味がある。ですから最初の訳語の案としては「遊戯」や「娯楽」、「冗談」なんていう候補も出ていたくらいです。
しかし当時は戦争もあり、「富国強兵」と強い国民を育てる必要があった。そこでスポーツが利用され、文科省の主導で「体育」という言葉に翻訳された。気晴らしウェイ! から兵士の身体を育てるものになってしまった。日本において、「体育」として独自の進化を遂げたスポーツは、第一次、第二次世界大戦によって、さらに歪められていきました。それがぼくの理解です。
—— では、澤田さんをスポーツぎらいにした犯人がいたとしたら何だと思いますか。そうやって出来てきた「体育」でしょうか?
明治政府と昭和ですかね。
—— 明治政府と昭和?
もっと言えば、日本の「空気」です。戦争が終わっても、空気に流されて、戦前の流れを汲む体育が引き継がれてきた。教師や先人たちのつくってきたスポーツのルールに従わなければいけないという空気が、ぼくをスポーツぎらいにさせたのだと思います。先生が絶対で、まったくゆるくない、ガチガチの世界感です。
このような「体育」が日本独自だと実感した経験もあります。高校時代にいたアメリカでも、体育のような”physical education”という種目がありましたが、どこかにクリエイティブ要素があるんです。例えばサッカーをするにしても、ボール二つでやってみる。普段だったらシュートを決められないぼくが、みんながひとつのボールに集中している隙にシュートを決められた。「あ、日本の教育と全然違う」と思いましたね。ルールの変更も、それはそれで楽しもうぜ、とゆるく捉えている。
福祉の世界を知り、誰でも楽しめる「ゆるスポーツ」を考案
—— スポーツぎらいだった澤田さんが、なぜもう一度スポーツに携わろうと思ったのでしょうか。
2013年に息子が生まれて、彼は視覚障害を持っていました。それをきっかけに福祉の世界と関わるようになって、障害のある人たちと友達になったんです。飲み仲間もたくさんいます。
ぼくが影響を受けたのは彼らの生きざまです。障害は、ある種の弱さだとも言えますが、当事者たちはその弱さをさらけ出すんです。その方が、周りが力になってくれるから。裏表がなくて楽だなと思いました。

彼らと接していくうちに、自分はコンプレックスに蓋をしていないだろうかと思いました。そういえばぼくはスポーツが嫌いだった。ちょうどそのタイミングで、オリンピック・パラリンピックの招致が決定しました。目が見えない息子と、運動音痴の父親がいて、一緒にスポーツをやろうとしても、できるコンテンツがなかなかない。
これは、逃げちゃダメなんじゃないか。これまで、スポーツをできないことが、魚の小骨のように30年くらいひっかかっていました。それを払拭するために、仕事を頑張ってきたつもりだったんですよね。それでも、ずっと引っかかったままだった。いよいよ成仏させようと。
—— ここから「ゆるスポーツ」が生まれてくるのですね。最初につくった競技はなんですか。
「ハンドソープボール」です。きっかけは、ハンドボール元日本代表キャプテンの東俊介さんから、コピーを書いてくれないか頼まれたこと。ハンドボールは当時、オリンピック出場を逃していて、貴重な露出の機会がなくなってしまった。今度大会があるので、お客さんとハンドボールとの接点をつくりたいので、というお話でした。
でもコピーではなく、もっと大胆な改革が必要だと思いました。当時はゆるスポーツ構想が頭の中にあったので、「ゆるいハンドボールを考えるので、そこからやってみませんか?」と提案しました。すごく戸惑っていましたね(笑)。
—— びっくりしますよね。
でも優しいので、承諾していただきました。
どうやってゆるめるか。ぼくはハンドボールが怖くてできません。なかでも、ボールのスピードが早いのが怖い。それを防ぐためにはどうしたらいいのか。みんなの手がツルツルになればいいのではないか。ハンドボールの名前に近づけて、「ハンドソープボール」にしようと。

そして実際に、体験会をやってみたら盛り上がりました。東さんも下手になったし、みんな平等に下手なので、誰が上手い下手がなくなる。ぼくも楽しかった。
ゆるスポーツを作る際に重視したのは、スポーツにユーモアの感覚を入れることです。試合が始まる時に、「スターティングソープ」を平等に手につけ、ボールを落とすと「アディショナルソープ!」と言って、ソーパーという、ソープボトルを持った仲間のもとに走っていて、ワンソープ追加。
—— (笑)。
ギャグマンガのような世界観にしたかったんですよね。ツルツルしている時点でおかしいし、「ワンソープ!!!」という号令でも爆笑する。かなり手ごたえを感じました。