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熟議でのナッジ? 熟議へのナッジ?――めんどうな自由、お仕着せの幸福(5) - 田村哲樹×那須耕介

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那須耕介さんがナッジやリバタリアン・パターナリズムをめぐって語り合う対話連載、今回は名古屋大学の田村哲樹さんがご登場です。政治学者として、ずーっと「熟議」を研究してきた田村さんは、じつはその熟議と食い合わせがあんまりよくないナッジも射程に入れて議論なさってきました。「政治」をめぐる初歩的な話から、ミニ・パブリックスなどなど、どうぞお楽しみください。(勁草書房編集部)

那須 今日は思い出話からうかがいましょうか。まず、田村さんがどんな文脈でサンスティーンの議論に関心をもったのか、また当時の印象、評価についても聞かせていただければ。そもそも田村さんは、ぼくから見ると、ずっと熟議の話をしている人なんです(笑)。

田村 そうですね! ほんとうにそのとおりです。1999年に提出した私の博士論文は、ドイツの政治社会学者であるクラウス・オッフェの福祉国家論の批判理論でした。その後、公共性とか、公私区分の問題に関心を持ちましたが、だんだん熟議民主主義論に来たんです。そもそも、オッフェ自身も熟議民主主義を議論していましたので、ある程度必然性があったのかもしれません。ともあれ、熟議民主主義研究を始めたのが2000年くらいからなので、かれこれ17、8年くらい経ちますね。これだけやってきたら、研究者をやっているかぎり、流行廃りとは別に研究し続けていくと思っています。

熟議論が日本でいちばん流行っていたのは、現実の政治でも「熟議」という言葉が使われた2000年代後半だったかもしれません。ミニ・パブリックスのような制度もローカルなレベルで導入されていきました。その時代が過ぎたから、廃れているようにみえるかもしれませんが、世界的な研究動向はまだまだ発展していますし、今後もやっていきたいですね。

那須 ごく初歩的なところからうかがいます。民主主義論には、いわゆる参加、反映、集約型の民主主義と、熟議的、反省的、批判的な民主主義のように、大きく2つの民主主義像があって、前者に近いアメリカ式の多元主義論への批判として後者の熟議論が出てきたというのが、外野からの理解ですけれどもあってますかね?

田村 簡単にいうと、「民主主義は個別利益の集計ではないんだ」という話ですね。民主主義とは、単純多数決の投票で決めるのでもないし、アメリカ的な多元主義のように個々の利益集団の利益の表出と交渉で決めるのでもない。一言でいえば、熟議とは、「利益集計ではない民主主義のありかた」の一つです。

田村哲樹さん

熟議民主主義をどう説明する?

那須 たとえば、授業ではじめて熟議という言葉を聞く学生さんたちには、どう説明しているんですか?

田村 そうですねぇ。ぼくは、まず「熟議とは、話し合いの民主主義のことです」と言ってしまいます。そのことを表現するために、「話し合い中心的(トーク・セントリック)」という言い方もしばしば紹介します。この表現は、15年くらい前、シモーヌ・チェンバースという人が使ってから、熟議を説明する時にしばしば用いられるようになりました。それで、「熟議民主主義とは、話し合い中心の民主主義です」、と。

ただ、「話し合い」といってもいろいろあるわけで、「話し合い中心」の後に、「自分の意見を言うときに受け容れ可能な理由を述べること」を付け加えます。これは、正当化やアーギュメントといわれる、「理由を述べる」部分ですね。それと、「相手の理由に納得したら自分の見解、選好をかえること」、つまり、選好の変容、意見の変容ないし反省性とかリフレクションと呼ばれる要素も大切です。この2つの要素が備わった話し合いが熟議です。

熟議がなぜ重要かという話については……、「人びとのあいだに紛争や意見対立が起こったときには話し合いをするしかないでしょ」と、こんなふうに言います(笑)。

那須 なるほどね。

田村 多数決で決めればいいと思うかもしれないけれど、多数決で決まらない場合もあるし、多数決でいったんは決めても納得がいかない可能性もある。お互いガチンコでぶつかっているのに、「じゃあ多数決で決めます。3対1です。これで決まりです」だと、「えっ」と思う人が出てくる。それは納得できてないからですよね。そういうわけで、意見の対立は社会の中にはどこにでもあって、それを解決するには話し合い、熟議ですよ、という言い方をします。

政治イコール選挙じゃないよ

田村 学部の政治学原論の講義で言っているのは、「政治のイメージを考え直してください」です。「政治イコール選挙」という見方を改めましょう、ということです。たしかに選挙や投票も政治の一部だけど、だからといって「政治イコール選挙」ということではないのだ、と。

政治は、かなりラフな言い方をすれば、「みんなにかかわる問題について、どうするかを決めること」です。そうだとすると、学級会も政治だし、友達どうしでなにかを決めるのことも政治になる。その決め方、つまり政治の行い方は、多数決もありうるしし、ネゴシエーションで決めることもあるだろうし、リーダーに任せるというやり方もある。もちろん、ぼくの場合は、熟議=話し合いで決めることが大事と言いたいところですが(笑)、その熟議も含めて、みんなに関わる問題についてのいろいろな決め方、つまり政治があり得る。そして、そのような政治は、いろいろな場で起こり得る。そういうわけで、あまり「政治イコール選挙」だと思わないでくださいね、と言ってます。

那須 田村さんがずっと言われていることのポイントの一つは、政治をオフィシャルなものに限定しない、制度化されたものに限定しない、ということですね。複数の人が共通の問題に取り組めば、家族で友達どうしでも政治だ、と。

田村 はい、そうです。政治学者の中では、なかなか支持してもらえませんけれども(苦笑)。

那須耕介さん

「よい熟議」って?

那須 問題はそこから先で、「熟議っていうけど、うまくいかないじゃないか」となったときに、雲を掴むような話になっちゃう。「よい熟議」のイメージってつかみにくいですよね。プロセスなのか、結果なのか。どういう基準で考えればいいのか。

田村 じつは「よい熟議はなにか」という話は、あまりしないようにしています(笑)。なぜしないかというと、「ぼくは政治哲学者ではない」と自分で思っているからです。

那須 ああ! 政治理論と政治哲学はそこがちがうと。

田村 そうですね。政治理論と政治哲学の異同問題はかなり論争的であることを前提として、ぼくの場合は「政治理論」が行うことは「正しさ」や「望ましさ」よりも、「政治」そのものの独自性を考えることだと思っています。そのような自分の「政治理論」観のためか、「よい熟議」や「よい民主主義」とか、「よい政治」とはなにかといった問いの立て方を、自分自身はあまりしていないですね。

那須 なるほど。

田村 ただ……、してないんですけど……。

那須 聞かれることはある?

田村 あります。まあ、熟議民主主義自体が、民主主義の望ましいあり方を提起するものですから、仕方ないのですが(苦笑)。「よい熟議とは?」ということを考えるとすると、ひとつは「結論の正しさ」ですね。熟議したほうがよりよい結論に到達できるから望ましい、という正当化の仕方です。少し前からの流行にエピステミック・デモクラシー論(認識的民主主義論)というのがあり、熟議の場合には、「熟議によって『正しい』価値や真理に到達できる」という議論の仕方があります。

でも、私はどちらかというと、熟議の意義は「結論を受け容れることができる」という意味での正統性(レジティマシー)に求められる、という立場です。つまり、「熟議の結論は正しくないかもしれないけれど、納得はできる」という意味です。

まとめると、熟議の「よさ」は、この2つに求められます。つまり、正しい結論に近づくからということと、結論に納得できるからということ。その上で、私はどちらかというと後者の理由を支持しています。なぜかというと、政治は何らかの「真理」を追求する場ではないし、たとえ追求したとしてもたぶんそれを見出すことはできないし、仮に「真理」なるものが見つかったとしてもかえって問題が起こるかもしれないのではないか、と私は考えているからです。もちろん、もしかしたら熟議を通じて正しい結論を導くこともできるかもしれず、それは熟議ではない形で「正しい」結論を見出すよりも望ましいだろう、とは思います。ただし、その可能性を考えることは、政治や民主主義の固有の性質を考えることとは少しちがうのではないかなとも思っています。

サンスティーンは真理発見型民主主義の人?

那須 なるほど。民主主義を考えるときの軸の一つに集計型ないし反映型と熟議型という対立軸があって、もう一方に真理発見型か、納得できる結論を作り出す創造型か、という軸がある。サンスティーンはどっちかというと真理発見型かな……。

田村 そうですね。

那須 サンスティーンは人間の可謬性を大事にしているんですけど、政治の世界での「まちがい」を、単純に「真理からそれること」と考えているふしがあって、ちょっと違和感もあるんです。サンスティーンは、真理発見型の民主主義をわかりやすく説くためにレトリックを多用しているだけなのか、納得創造型の民主主義像ももっているのか、よくわからないところが……。

田村 なかなか難しい問題ですが、公共フォーラムとか、アメリカ憲法の討議的熟議的解釈とかの話をしているときは、たぶん真理の追究ではなくて「人びとが共通のものに関心をよせること自体が大事」というトーンですよね。

しかし、ナッジやリバタリアン・パターナリズムの議論では、科学の諸成果も動員して、いかに「まちがった」選択を減らし「正しい」選択をもたらすかという話をしているので、先ほどの区別の言う真理発見型の議論をしていますよね。こうして見ると、サンスティーンの議論には二面性があるような気もしてきます。ただ、私自身も、「政治を行うことは真理への到達とは異なる」と考えている一方で、「正しい」系の議論の一つである集合知論にはなぜか興味があります(笑)。

那須 授業で、民主主義像には「あるがままの主権者の意思が歪められることなく反映される」というのもあるけど、「われわれの最善の部分をうまくすくいあげて決定に反映する」っていうのもあるよね、と言うと、みんなちょっと悩み始めるんですよね。前者なら「親近感を覚えるからタレント候補に投票する」のはアリ。でも後者だと、「大所高所にたって、われわれの社会が長期的に向かうべき方向を見通せる人を選ぼう」という言い方になる。田村さんの話は、どっちなんでしょう。

田村 なるほど。意見がそのまま表出される民主主義と、そうではない民主主義というふうに考えると、熟議民主主義は、民主主義ではあるけれども、そのままの意見でいいよという民主主義ではないよ、と思いますね。

那須 真理発見型かつ反映型の民主主義でいいのなら、ビッグデータで国民の意思は投票よりも正確に把握できちゃうかもしれない。でも納得創造型の民主主義をとるなら、言葉を通じて、自分の考え方を変えたり、相手の考え方を変えたり、そういう過程が必要になってくる。ただ、そこで質の高い結論を得るには、結局、参加の資格や手続きに制限を加えろ、という話になりませんか。

そこにある「政治」

田村 議会は制度化された場なので、そこでの熟議のルールは公式のものであれ非公式のものであれ設定しやすいと思います。一方、「友人間や家族メンバー間でも熟議」というと、ルールがないから問題が生じやすくなるといわれます。ただ、私自身の基本的な関心は、制度か非制度かよりは、まず「政治はいろいろなところにありうる」ということにあります。まずそこに政治や熟議がありうることを認めましょうという、そこにウェイトがあります。そういう関心から、うまくいくかどうかという以前に、「家族だって政治の場になりうる」というと、「いや政治の場ではない」「家族にも政治がある、というのは政治学者ではない研究者がいうことだ」という反応が返ってきます(笑)。

那須 んん〜。

田村 たしかに家族でも友人でも地域でも、「小文字の政治」といわれそうなところに「ポリティクス」を見出して研究するのは、たいていは政治学者ではない研究者です。そして、政治学者はそれを政治研究とは見ていない。政治学者も、家族であれ何であれ「小文字の政治」が発生する場に関心を持たないわけではありません。しかし、政治学者の関心はあくまで、そうした場での出来事が、どのように公式の政治過程に媒介されていくかにあります。

私は、「小文字の政治」といわれるものも政治であって、そこでもし民主主義がおこなわれるのであれば、「大文字の政治」における民主主義と同じことをやっていると、まずは見るべきではないかと言っています。

親密圏熟議の困難

田村 そうはいっても、家族や親密圏での熟議には、いろいろと固有の困難はあります。たとえば、開かれた場ではないために、声の大きな人や文字通り力の強い人の主張が通りやすい可能性があります。こうした問題にどう対応するかについて考えなければなりません。そこで、『熟議民主主義の困難』(2017年、ナカニシヤ出版)では、財政的な資源といいますか、ベーシック・インカムを保障することが発言のための資源となる、という言い方をしたのでした。一定の所得を持つことが、発言するための支えになると考えたのです。

親密圏での発言を支える他のものとして、ナンシー・フレイザーの言う「サバルタン公共圏」もヒントになります。家族の中でパワーバランス的に弱い人も、家族の中だけだと制度的支えがなく、言いたいことも言えないとしても、家族の外を経由することでエンパワメントされるかもしれません。たとえば、女性だけが集まる会合で、夫婦関係のことを話し合うことで、自分の立場や家族関係をうまく表現する言葉を見つけたり、発言の仕方を身につけていくことがありえます。

ちなみに、やや話がそれますが、私はこのように考えれば、通常の意味では家族の外部とみなされるような場や人間関係も、「熟議システムとしての家族」の構成要素と見ることができると考えています。ただ、そうだとしても、親密圏や家族における熟議について、議会その他の公式の制度と同じルールを設けることで議論のあり方をコントロールすることは難しい。それは事実です。でも、難しいからといってありえないというわけではないと思いますし、熟議がないよりはあった方が望ましいとも思っています。

那須 そこで感じるのは、「よりよい熟議にしていくにはどうすればいいか」という問題の前に、「そもそもなぜ家族で熟議、友達で熟議なのか」という問題がある、ということです。「とにかくトーク・セントリックが大事」というのはわかる。それを「熟議」だ、「政治」だ、といわれるとちょっとひくというか……。

「言わないとわからないよ」、っていうことの大事さがどこで出てくるか、という問題が先にある。親密圏には、「そんなことわかってると思ってた」的な行き違いがいつもあるでしょう。言わなくても伝わると思えることが親密さの前提にある。なんでもかんでも言わないといけないんだったら、それはもう親密圏じゃない。

田村 そうですね。

那須 でもそれが暴力の温床にもなる。だからいざというときには話し合う習慣ももっておいたほうがいい。

田村 おっしゃるとおりです。このあたりに関する感覚はもっているつもりで、『熟議民主主義の困難』にも少しだけ書きました。親密圏や仲のいい関係はだまっていてもわかるのがベストだと思っているかもしれない。それでも、実際にはわかってもらえなくてつらかったとか、言ったらキレイゴト言うなって怒られてなんか理不尽な思いをしたといった経験もする。それはつまり、やっぱり熟議や話し合いが大事だということではないですか、と。残念ながら、このあたりの話は、私の政治学者としての頭が固すぎるせいか(笑)、まだきちんと展開することができていないのですけれど。

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