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シャネルに「不可能」という言葉はない。日本も可能性に溢れた時代を取り戻すべき - 「賢人論。」124回(前編)リシャール・コラス氏

リシャール・コラス氏はフランス・オード地方生まれ。18歳で初めて訪れた日本に魅了されて以来、日本での暮らしを夢見て在日フランス大使館勤務などを経て1981年にジバンシィ日本法人を設立。その後、シャネルへ活躍の場を移し、1995年から2018年まで同社日本法人代表取締役を務めた。世界的ファッションブランドのキーパーソンとして多忙を極める一方、2006年からは“日本の美”をテーマにした長編小説を執筆。2020年3月、自身の美学の集大成である『茶室』が集英社より刊行される。日本人よりも日本に深い思いを寄せてきたコラス氏に、ご自身の半生とバブル崩壊と景気後退を経て今に至る日本の今後について話を伺った。

取材・文/木村光一 撮影/Lucille Reyboz

ブラジルへの冒険の旅を諦めて日本へ

みんなの介護 コラスさんが日本を初めて訪れたのは18歳(1972年)のときだと伺っています。最近はアニメなどのポップカルチャーに影響を受けて日本にやってくる若者は珍しくありませんが、コラスさんも何か憧れがあったのでしょうか。

コラス 最初は日本へ行くつもりはまったくなかったんです。一番行きたかったのはブラジル。冒険がしたかった。ところが、母から猛反対されて行けなくなってしまった。私が行こうとしていたのは通信手段もなく、手紙を出しても無事にフランスへ届くかどうかもわからない奥地。母が心配するのも無理はありませんでした。

ブラジル行きを諦めてがっかりしていた私に父がこう言ったんです。「おまえは若いのだから、もっと世界を見た方がいい。そうだ、日本はどうだ。歴史や伝統文化を守りながら、あれほどめざましい近代化を達成した国は他にはない。その目で見ておくべきだと思う」。そんな父からの後押しもあって、日本へ行くことを決めました。

Nikonを買いにきたつもりが、気づけば日本に恋をしていた

コラス 父はエールフランスのパイロットで、1950年代に日本航路を飛んでいました。彼は日本の文化をとても気に入っていて、いつも浮世絵や根付(ねつけ)などをお土産に買ってきていたので、家の中には日本文化の香りが漂っていました。今のように日本との行き来が簡単ではない時代でしたから、その意味では、私の家族はほかのフランス人よりもずっと日本に親しんでいたと思います。ただ、子どもだった私はそれを当たり前に受け止めていただけで、とくに興味を抱いていませんでした。なので、父から日本行きを勧められても、はじめのうちはなかなかその気にならなかったんです。

みんなの介護 なぜ心変わりをしたのでしょう。

コラス 「日本へ行けばNikonが安く買える」と聞いたから(笑)。
カメラ好きだった私は、フランスではとても高価で手が出なかったNikonの一眼レフが欲しくてたまらなかった。というわけで、俄然気が変わったんです。

みんなの介護 実際、日本にきてどんなことを感じましたか。

コラス まず、耳に入ってくる日本語の響きの心地良さと、どこへ行っても清潔なことに驚きました。パリは美しい街なのですが、足下は犬の糞だらけ。それに比べて、日本の都市は一見して無秩序で人や車も多いのに規律が保たれている。さらに、出会った人々がみんな礼儀正しく、親切で奥ゆかしいことに心打たれました。このとき私は約2ヵ月かけて東京のほかにも日光や富士山、京都、厳島神社などへ旅行に行きました。気がつくと、もうすっかり日本の自然や文化、人々の優しさに魅了されてしまった。日本と恋に落ちてしまったんです。

在日フランス大使館からビジネスの世界に転向

みんなの介護 コラスさんは22歳でパリ大学東洋語学部を卒業し、在日フランス大使館に勤務後、一度フランスに戻ってAKAIのフランス代理店で勤務。ジバンシィに入社してから同社の日本法人設立に尽力して代表取締役に就任されました。日本を離れたときには、何か思うところがあったのでしょうか。

コラス 在日フランス大使館では外交官を目指していて働いていました。フランスの文学者には外交官が多かったので、ひょっとして何か書く時間が自由に取れる仕事なのかと安易に考えていたんです。もちろん、日本での暮らしも実現しますから、私にとっては一石二鳥でした。

ところが、実際に務めてみると仕事は公務員そのもの。この先、何十年もこれをやっていかなければならないのかと思ったらうんざりしてしまいました。とはいえ、いきなり日本の民間企業に入って働くのにも不安があり、それで一度フランスへ帰って、ビジネスの基本を学ぼうと思ったんです。

みんなの介護 では、日本のオーディオメーカーに入社したのは、日本で生活しながらビジネスを行うための布石だったのですね。

コラス はい。私は音楽も日本人も大好きですから、楽しみながら貴重な経験を積むことができました。ジバンシィへの転職も日本人の同僚からの情報がきっかけです。

シャネルの辞書に不可能の文字はない

みんなの介護 それにしても、ジバンシィに入社後、たった2年で自ら日本法人を立ち上げてしまったのは驚きです。そのとき、コラスさんはまだ20代後半でしたよね。

コラス 28歳でした。本当のことを言えば、ファッションのことは何もわからなかったのですが、ユベール・ド・ジバンシィさん(ジバンシィ創業者で世界的デザイナー)から「日本はこれからもっと景気が良くなって、ファッションにお金を遣うようになる。我々のブランドを大きくするためには日本市場が重要なんだ。頑張ってくれ」と励まされて、がむしゃらに突き進みました。

みんなの介護 80年代初頭といえば、ちょうど日本はバブル景気前夜。絶好のタイミングでしたね。

コラス はい。ところが、ジバンシィはオードリー・ヘプバーンやモナコ大公家、ケネディ家といった超セレブを顧客に抱える世界一流のブランドにもかかわらず、その頃、日本では知名度が今一つだったんです。

とはいえジバンシィ・ジャポンは誕生したばかり。広告を打ちたくてもお金がありません。どうしようかと思案していたとき、アメリカでジバンシィさんが「リンカーン・コンチネンタル」という高級車のインテリアデザインを手掛けていたことを思い出し、「そうだ、日本といえば自動車!有名自動車メーカーと組めばいいんだ!」と閃きました。

そして実現したのが日産車とジバンシィのインテリアデザインの融合。エレガントでヨーロピアンな内装は評判を呼んで、テレビや雑誌、全国の日産ショールームがメディアとなって、一躍「ジバンシィ」の名前が日本中に広まりました。 

さらに、20世紀を代表する世界的女優オードリー・ヘプバーンを招いてNHKホールでファッションイベントを開催したことで、日本におけるブランドイメージは確固たるものとなったのです。

みんなの介護 今の日本では、バブル時代を反面教師にするべきという風潮があります。コラスさんは、あの頃の日本をどのように総括されていますか。

コラス 私は悪いことばかりではなかったと思っています。あの時代、日本ではアイディアがあれば何でもできた。可能性に溢れた時代でした。

しかし、今の日本では「それはできない」「不可能です」という否定的な意見ばかりがまかり通って、何も新しいことが始まらない。論理的で双方に利益があるアイディアであれば必ず相手に通じるはず。はじめから臆してしまって、可能なことも不可能にしてしまっているように思えてなりません。

私がシャネルで仕事を始めたのはバブル崩壊後でしたが、ビジネスの基本的な考え方や方法論は一貫して変えませんでした。そもそもフランスには「ナポレオンの辞書に不可能の文字はない」ということわざがあります。そして、シャネルというブランドは、常に最先端で革新的でなければならないという命題を課せられています。

そんなことを私が言い続けたものですから、今では社内で“インポッシブル”という言葉が使われなくなりました。誰かが「不可能」と言おうものなら、「それなら」と私が実行してしまうからです(笑)。

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