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李登輝の遺言 - 早川友久 (李登輝 元台湾総統 秘書)

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秋晴れ、というよりは真夏が戻ってきたかの陽気だった。

9月19日、総統府が主催する李登輝総統の追悼礼拝が行われた。

礼拝が行われたのは淡水にある真理大学キャンパスの大礼拝堂だった。淡水は台北市北部の河口に広がる街で、日本統治時代から現在に至るまで風光明媚な観光地として人気だ。

なぜこの場所で追悼礼拝が行われたかには理由がある。まず、李登輝も夫人の曾文恵も、この淡水の北にある三芝で生まれ育ったことだ。生家である「源興居」は現在も保存され、土地の人々の手で守られている。また、李登輝は中学時代をこの淡水の街で生活している。淡水中学で学び、寮に入っていたからだ。さらに、真理大学は李登輝の信仰と同じキリスト教長老教会系の大学で、大人数を収容できる礼拝堂を有しているということもあった。これらの理由で、淡水が会場となったのである。

また、それとは別に、ご家族の意向もあったようだ。というのも、実は私も李登輝の口から聞いたことがあるが、人生を振り返ると一番楽しかったのは淡水中学の時代だった、というのだ。

確かに、李登輝の人生をなぞれば、淡水中学を終えて台北高等学校へ進学したものの、時代は1940年代、戦争の足音が聞こえ始め、学校にも暗い影を落とし始めていたし、京都帝国大学では学業半ばで学徒兵に志願している。戦後は国民党独裁下の白色テロが横行する時代、息をつく暇もなかっただろう。台湾に「安心して夜眠れる」自由な社会がもたらされたのは、自身が総統として民主化を進めたからこそだった。

そう考えると、李登輝の人生のなかで、もっとも安心して心から笑って過ごせたのがこの淡水中学の時代だったのはむべなるかなと思える。だからこそ総統退任後に李登輝事務所や群策会(現在の李登輝基金会の前身)の事務所を、台北市中心部まで多少距離があるという不便さを知りつつも淡水に置いたのだし、そうした李登輝の気持ちを汲んだ家族の意向も大きく働いたのだろう。

この連載をまとめた書籍『総統とわたしー「アジアの哲人」李登輝の一番近くにいた日本人秘書の8年間』(早川友久 著・ウェッジ)が10月20日に発売されます

礼拝会場となった真理大学には李家と親しい人々や、蔡英文総統をはじめとする五院の院長、政府関係者、各界の名士、そして日本からは森喜朗元首相や米クラック国務次官、各国大使らが出席して執り行われた。隣接する淡江中学(李登輝が通った淡水中学の後身)には、パブリックビューイングが設けられ、一般の人たちも李登輝を偲べるようになっていた。

実は追悼礼拝の前日にも、予行演習が行われていた。李登輝が終のすみかとした故宮博物院裏手の翠山荘(李登輝邸の通称)から会場となる真理大学まで交通管制が敷かれた。台湾では、総統経験者の乗る車列が通過する場合、信号はすべてコントロールされる。だから李登輝が外出するときも赤信号で停まることはなかった。この日の車列にも同じように交通管制が敷かれたが、違うのは、車上の人が李登輝の遺骨を抱いた孫娘と家族たちに変わったことだった。

式典の空気が一瞬にして変わったワケ

礼拝当日、空は真夏のように澄みきり気温も高かった。憲兵隊の白バイに先導された車列は、先に到着していた蔡英文総統らに出迎えられ、礼拝堂に到着した。李登輝は身長が180センチ以上ある偉丈夫で、私が何か耳打ちしようとするとちょっと背伸びをするほどだったが、孫娘に抱かれた遺骨を見て、改めて「小さくなられてしまった」というのが実感だった。

礼拝に先立ち、蔡英文総統から家族へ「褒揚令」が贈られた。「褒揚令」とは、国家に対してとりわけ偉大な貢献があった人に授けられる、いわば勲章のようなものだ。「褒揚令」を贈る理由として、6度にわたる憲法改正、動員戡乱時期臨時条款の廃止、万年国会の改選、総統直接選挙の実現、台湾の地位の確立、「静かな革命」と呼ばれる自由民主化の実現によって「民主化の父」と称賛された、などが述べられた。

悲しみに包まれつつも、和やかな雰囲気で進んだ礼拝の式典の空気が変わったのは、司会が次のように告げたときだった。

「日本の安倍晋三前首相から哀悼の言葉が届いております」

つい2週間ほど前に、体調不良によって総理を辞任する会見を開いた安倍前首相は、追悼礼拝の2日前に、総理を退任していた。安倍前首相からの哀悼の言葉が、交流協会台北事務所の泉裕泰代表(駐台湾大使に相当)によって代読され始めると、一種の引き締まったような、ピンとした空気が会場を包み込んだ。

この空気の変化は、端的にいってしまえば「やはり李登輝はすごい」という感嘆だったのではないかと思う。つい2日前まで日本の現職総理だった人物が、李登輝の追悼礼拝の式典にメッセージを寄せている。ここでは、安倍前総理は、退任したからメッセージを贈れたのではないか、などという政治的な都合を穿って考えるのはよそう。ともかくも、出席した人々は、李登輝の日本との結びつきの強さ、日本における存在の大きさを改めて感じ、あるいは改めて認識したのだろう、と思う。それほどまでに李登輝と日本の関係は特別だった。

礼拝も終わりに近づき、李登輝の来し方を振り返るビデオが流された。そのビデオの最後に流されたのは、2012年に、蔡英文が初めて総統選挙に挑戦した投票日前夜の集会の模様だった。

私もこの日のことはよく覚えている。李登輝はそのわずか2カ月前に大腸がんの手術を受け、まだ静養中の身だった。それでも李登輝が無理をしてまで登壇したのは、蔡英文をなんとか現職の馬英九に勝たせなければ、台湾の未来が奪われるからだった。

このときの挑戦では、結局蔡英文は敗れたが、馬英九政権は過度に台湾を中国へ接近させる事態を招いた。結果、2014年には「ひまわり学生運動」が勃発し、2016年の蔡英文政権誕生に繋がっていくのである。

1月の雨もちらつく寒い夜だった。李登輝は蔡英文の応援演説を終えたあと、もう一度司会者にマイクを要求する。そして絞り出すような声で訴えたのだった。

「台灣要交給你們了!(台湾のことは皆さんにまかせましたよ!)」

つい2カ月前に大手術をして静養中の、90近い老人の、文字通り絞り出すような声色だった。

李登輝はいつも言っていた。

台湾にとって日本はなくてはならないが、日本にとっても台湾はなくてはならないんだ、と。だから「台湾のことはまかせた」という言葉は、日本人の私たちにも向けられた言葉だということを忘れてはならない。

「台湾のことは皆さんにまかせましたよ!」

この言葉こそ、李登輝の「遺言」だ。そして、この遺言を受け継いでいくことが、私と李登輝の約束なのである。

『総統とわたしー「アジアの哲人」李登輝の一番近くにいた日本人秘書の8年間』(早川友久 著・ウェッジ)2020年10月20日発売

早川友久(李登輝 元台湾総統 秘書)
1977年栃木県足利市生まれで現在、台湾台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学卒業後は、金美齢事務所の秘書として活動。その後、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフを務めるなどして、メディア対応や撮影スタッフとして、李登輝チームの一員として活動。2012年より李登輝より指名を受け、李登輝総統事務所の秘書として働く。

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