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「首相単独インタビュー」の思い出(鈴木耕)

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歳をとったせいか、昔のことをよく思いだす

 安倍晋三氏が首相を辞めた。菅義偉氏が新首相になった。だからといって、なにかが変わる気配はまったくない。いやむしろ、もっと気持ちの悪い世の中が来そうな気がする。菅首相の会見を見ていてそう思う。

 安倍氏は、ほんとうに記者会見を嫌った。その代り、単独インタビューを好んだ。それも、自分に都合のいいメディアばかりを選び、好き勝手なことをしゃべった。そりゃ気持ちはいいよね。相手はおべんちゃら記者、相槌ばかりで批判のヒの字もない。

 少しでも批判をするようなところは徹底的に嫌い、インタビューなんかには応じない。マスメディアも舐められたもんだ。安倍氏だけではなく、菅義偉新首相もその類らしい。

 しかし安倍首相以前は、こんな「ゴマスリ会見」や「よいしょインタビュー」ばかりではなかったのだ。内閣記者会という記者クラブがそれなりに力を持っていて、「首相単独インタビュー」は、記者会所属の会員社が回りもちで担当していた。

 今回はA新聞、次回はBテレビ、それからC新聞…というように、首相インタビューを行う社を決めていたのだ。つまり、加盟社に平等に首相インタビューの機会を与えるということが、暗黙の了解事項であったという。そんな不文律を首相官邸も認めていた…。

 なんでこんなことを言うかというと、ぼくにも「首相単独インタビュー」ができそうな機会があったことを思い出したからだ。

 歳をとったせいか、このごろ、昔のことをよく思いだす。

日本社会党委員長が首相だった時代もあった

 今の若いみなさんには考えられもしないことだろうが、1994年当時、首相は日本社会党(現在の社民党)の村山富市委員長だったのだ。これには、かなり深い背景、政界裏事情があった。

 前年(93年)に、宮澤喜一自民党内閣が崩壊、代わって細川護熙氏(新党さきがけ)が首相となり、なんと8党連立(社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合)という非自民政権が成立した。いわゆる「55年体制」(自民党と社会党による政治)の崩壊であった。

 しかし、この8党連立政権は、なにしろ寄り合い所帯だ。「政治改革政権」を標榜しながらも、内部対立が激しかった。そこへ「佐川急便事件」という金銭問題が細川首相本人をも直撃した。

 結局、わずか8カ月で細川政権は崩壊し、羽田孜氏(新生党)が後継首相になったが、これもまた、たった64日間という短命政権に終わった。新党結成や小政党の集合離散は激しく、日本政治はまさに激動期の真っただ中にあったのである。

 ところがここで、自民党は政権復帰を目指して、水と油と言われてきた社会党と手を握る、という驚くべき奇策に出た。裏には、自民党と社会党に共通する「小沢一郎排除」というキイワードがあった。

 かくして非自民政権はここで終わり、今度は「自社さ連立政権」が、村山富市社会党委員長を首相として成立することになった。つまり、自民党、社会党、新党さきがけの3党連立政権の誕生である。社会党首相というのは、実に1947年の「片山哲内閣」以来であった。

第81代内閣総理大臣の村山富市氏(出典:首相官邸ホームページ)

社会党首相出現は、実は大惨敗の結果だった

 なぜこんな古い歴史をひもといたかというと、これが前述したぼくの「首相インタビューの機会」の話につながるからである。

 当時、村山首相はトンちゃんという愛称で知られ、長い眉毛の好好爺じみた風貌で、それなりの人気を得ていた。しかし実は、この時期の日本社会党は、かつてないほどのどん底にあえいでいたのだ。

 1993年7月の総選挙において、社会党はそれまでの139議席が77議席へほぼ半減するという歴史的惨敗を喫していた。非自民連立政権内におけるゴタゴタと、世界的な「冷戦終結」による社会主義イデオロギーへの失望が、社会主義的な政策を掲げていた社会党惨敗の原因でもあった。

 そこに目をつけたのが自民党だ。自民党は227議席を保持してはいたものの、過半数には到底足りず、単独で政権を握ることはできなかった。そこで政権復帰の奇策として、社会党にすり寄ったのだ。

 首相の座は社会党に譲るが、連立で政権に復帰したいと考えたわけだ。まさに政権復帰への執念である。その結果、できあがったのが、世にも奇妙な「自社さ連立政権」である。水と油が、それまでのいきさつを“水に流して”混じり合ったのだ。

 かくして社会党は首相の座は得た。だが議席は最低レベルに落ち込んでいたのだから、党勢復活への新しい試みが急務であった。

若者雑誌『週刊プレイボーイ』に目をつけたのは

 ぼくは当時、「週刊プレイボーイ」の編集長の職にあった。

 ぼくの知り合いでTという男がいた。Tは個人事務所をもって、さまざまな分野のプロモーションを手伝うということをなりわいにする、いわゆる業界人だった。芸能人やアーティスト、作家などの宣伝を請け負うことを仕事にしていたのだ。

 例えば、ロックグループの頭脳警察やカルメン・マキなどのプロモーションで、ぼくのところにも時折、顔を見せていた。ある日、そのTがちょっと意気込んだ顔で編集部に現れた。

「総理大臣の単独インタビューをやりませんか」

 唐突である。何をバカなことを。Tがいつもやっているプロモーションとはかけ離れた話だ。さすがにぼくも面食らった。

「社会党のある人から相談があって、『週プレ』あたりで村山さんのインタビューってどうだろうね、というんですよ。『編集長インタビュー』なら受ける可能性があるというんですけどね」

 この当時、「週プレ」は、発行部数が80万部を超えていた。部数的には、当時最大部数を競っていた「週刊現代」「週刊ポスト」と、肩を並べる存在だった。ま、それも時代である(ちなみに、この当時は「週刊新潮」「週刊文春」より「現代」「ポスト」のほうが部数的には多かったのだ)。

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