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若松監督『理由なき暴行』について書いた文章をアップします。

若松孝二監督『理由なき暴行』を初めてみたのが中二のとき、つまり1972年。それから35年後に、あらためて『理由なき暴行』を論じました。そのときの文章(『〈世界〉はそもそもデタラメである』に所収)をアップします。


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“外への鮮烈な願望”と“外の不可能性への痛切な認識”が同居した69年。“願望”が消え“認識”だけ残った2004年。両者の差異を『理由なき暴行』『誰も知らない』に見る
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【「自由の輝き」説と「アノミー」説の違い】
■「60年代の奇跡」は、それまで不自由だった者たちが、突然自由になって体験した「自由の輝き」によってもたらされたのか。それとも、急激な郊外化でアノミーに陥った者たちの、空洞化を埋め合わせてくれる「全体性や超越性への希求」故にもたらされたものか。
■前者の立場、即ち「自由の輝き」説に立つのが、李相日監督『69 sixty nine』(04)。後者の立場、即ち「アノミー」説に立つのが、ベリトリッチ監督『ドリーマーズ』(04)。前回そう述べた。そこでも示唆した通り、どちら立場を採るかで今日的な寓意性が一変する。
■よく知られる通り、映画の脚本は三段構成が多い。序破急という言葉もあるが、連載でも繰返し言及した「通過儀礼」の図式に置き換えると分かり易い。即ち「離陸→混融→着陸」の三段階。「混融」を学問世界で「コムニタス」と呼ぶが、いわば「カオス」のこと。
■例えば60年代の昼メロやピンク映画の定石があった。やっと幸せを掴んだ女がいる。突如、男に強姦される/事故を起こす/夫の浮気を知る。幸せを手放すまいとする彼女のドラマが始まった。艱難辛苦を経た彼女は「新たな地平=再帰的な幸せ」に着地する──。
■通過儀礼図式では、離陸面(古い地平)と着陸面(新たな地平)との間の落差が、「目から鱗」的な気づきの体験をもたらす。その体験が、感情のフックになって娯楽性をもたらし、かつ「〈世界〉は確かにそうなっているという納得」が帰結する寓話性をもたらす。
■離陸面は勝手知ったる日常から出発するとして、脚本家による、(1)何がカオスたり得るかという分析と(2)何が着陸面になり得るかという分析こそが、脚本の深さ、即ち世界観の奥行を規定する。ところで「自由の輝き」説と「アノミー」説では、(1)と(2)とが異なる。
■「自由の輝き」説では、暗闇に差し込んだ自由の眩しき光の「非日常」がカオスを与え、再び「日常」に戻ったとき「主人公が大人になっている」。即ち「意思して秩序を生き得る者」へと成長している。そこでは「無自覚な日常」が「再帰的な日常」へと置換される。
■まさに『69』そのもの。ことほどさように、自由と不自由の二項対立を用いた「自由の輝き」説は、「自由を行使して選ぶ不自由」という再帰性が、論理的に着地点であり得る。だが、〈内在〉と〈超越〉の二項図式を用いる「アノミー」説では、それはあり得ない。
■「アノミー」説では、〈社会〉内での位置取り(疎外回復)にあくせくする者に、〈世界〉からの突然の訪れが、「非日常」のカオスをもたらす。〈超越〉体験。ないし一瞬の「全体性の獲得」。だが、「全体性の背理」故に、着陸面は挫折や不全でしかあり得ない。
■〈世界〉は何故あるかと問い得るポジションが〈超越〉だ。だが、問いの答えは論理的に〈世界〉の外になければならないのに、〈世界〉とはありとあらゆる全体だから外はあり得ない。全体性の背理だ。これを解決できるような日常的場所は〈社会〉に存在しない。
■それ故の挫折や不全が『ドリーマー』に描き込まれていると見える。姉妹が部屋で淫靡に戯れ、毛沢東に淫するのは、自由だからではない。急な社会変動によって浮上した〈社会〉のありそうもなさ故に、〈社会〉に関わるということ自体が不全感をもたらすのだと。
■その意味で、「アノミーがもたらす不安」ゆえの「全体性への投企と慘めな挫折」を「性的放蕩を通して描いた」作品だと言える。だが、同じ図式に収まる、『ドリーマー』を遥かに凌ぐ映画を知っている。若松孝二監督『理由なき暴行〜現代性犯罪絶叫編』(70)だ。

【〈超越〉の挫折は、心理的問題か社会的問題か】
■津軽から出てきたナマリ丸出しの同級生三人組がいる。早大生、代ゼミ生、旋盤工。三人はボロいアパートに同居する。時代は69年。大学にはバリケードが築かれ、デモや集会で学生たちが気勢を上げる。しかし三人には関係ないどころか、それがむしろ鬱屈の種だ。
■集会参加を呼び掛けるビラ配りの女子学生に、主人公の早大生が言い放つ。《やらせてくれるなら、参加してやるよ!》。全くクソ面白くもない毎日だ。折しも街では映画『網走番外地』(65)がリバイバル。三人は高倉健が歌った主題歌「網走番外地」に唱和する。
■《♪遥か 遥か彼方にゃ オホーツク。紅い真っ紅な ハマナスが。海を見てます 泣いてます。その名も 網走番外地》。誰かが言う。《小田急線に乗って網走に行こう》。そう。まさに小田急新宿駅こそは、東京に〈世界〉が闖入しうる「弱い場所」だったのだ!
■コンピュータ放送が導入される前の小田急新宿駅は、電車の扉開閉を「海側どうぞ」「山側どうぞ」と業務放送していた。相模大野で箱根行きと江ノ島行きが分岐するからだ。業務放送の度、大都会新宿の「日常」に、箱根の山と、江ノ島の海の「非日常」が闖入した。
■だからこそ小田急の特急は「ロマンスカー」と名付けられ、戦後の歌謡曲で「逢引電車」として歌われた。日常に穿たれた非日常の穴。システムに穿たれた外への穴。〈社会〉に穿たれた〈世界〉への穴。だから《小田急線に乗って網走に行こう》は完全に正しかった。
■つげ義春の「ヤナギ屋主人」(69)の主人公もまた「網走番外地」に誘われて、夜更けの総武線でふらり房総に出かける。当時は新宿に、東京に、「システムの外」からの香りが漂っていた。「システムの外」の存在が信奉される時代を「近代過渡期」と呼ぶと述べた。
■さて、小田急線で網走に着いた三人が見たものは、ベタベタ連れ添うバカップルの群れ。ムカツク三人は、男をボコり、女を犯して写真に撮る。暫くは写真をネタにアパートで愉悦に浸る三人だったが、やがてダルい日常が訪れる。しかしその日常も長く続かなかった。
■予備校生は事故死、旋盤工は自殺する。人通りの絶えた明け方の新宿を早大生が千鳥足で歩く。駆けてきた何者かに後ろから当たられて顛倒すると、彼の前に拳銃が転がる。何者かは駆け去り、彼が拳銃を手に立ち上がると、銃を捨てろの声。警官が銃を構えている。
■言われた通り銃を捨てかけた彼は、ふと身を起こして警官に銃を向ける。双方が発砲。胸を撃ちぬかれた彼が塀にもたれてもがく。塀には血糊がべっとり付着し、エンドタイトル。まさに「どこかに行けそうで、どこにも行けない」……中学時代に観た私は震撼した。
■折しも自分の学校は中学高校紛争のまっ直中。学年集会と全校集会の繰返しの毎日だった。そんな毎日を送る自分の気持ちを完全に言い当てられた気がしたのを覚えている。「どこかに行けそうで、どこにも行けない」。この言葉が、私の頭蓋を何度も何度も反響した。
■因みに「どこかに行けそうで、どこにも行けない」のモチーフは、『理由なき暴行』の前年公開された『略称・連続射殺魔』『ゆけゆけ二度目の処女』以降、若松と足立正生のコラボレーションで反復される。彼ら自身は「風景映画」「風景論の映画」と呼んでいた。
■ここで言う「風景」は、第一に、都市化と郊外化で全国どこも同じ風景になるという意味での風景。第二に、ディスカバージャパン的な「絵葉書」のような風景。いずれの場合も、コンビニエント化と機能主義化のせいで、場所も人間も入替え可能になることを示す。
■『理由なき暴行』も、「アノミーがもたらす不安」ゆえの「全体性への投企と慘めな挫折」を「性的放蕩を通して描いた」作品であるのは見易い。だが、『ドリーマーズ』を二点で凌ぐ。第一点は「アノミー」の実質、第二点は「挫折」の実質、の描き方においてだ。
■『ドリーマーズ』の米国人主人公(=観客)の目には、フランス人姉弟の不安が、姉弟カプセル的なコクーニング(繭籠り)による心理的脆弱さのなせる業だと映り、全体性への投企の挫折も、ブルジョア的な文化主義のなせる業だと映る。結果、問題が矮小化される。
■心理的脆弱さとブルジュア趣味が、アノミーや挫折をもたらすことはあろう。そのプロセスで、儚く危き光が幻のように燦めくこともあろう。自由ではなく不可能性こそが輝くのは事実だが、不可能性が心理的に解釈される限り、それは「69年にとって」どうでもいい。
■『理由なき暴行』は違う。アノミーは、「システムの外」への信奉が結局は虚構であり、「内」も「外」も全てシステムの生成物であることに、結びつけられる。「番外地」(番地なき場所)も結局、「番地」制定権力が作るもの。「網走番外地」は「江ノ島」に過ぎない。
■網走番外地が江ノ島であること。システムの外がシステム生成物であること。〈社会〉の外の〈世界〉が〈社会〉の生成物であること。これらは構造的問題だ。であれば「外部への投企」は滑稽な形で挫折する他ない。連合赤軍事件を含めた左翼の挫折に通底しよう。

【それでも〈社会〉を生きなければならないか】
■このことは「全体性の獲得」が「全体性の背理」故にあり得ないことと論理的に同型だ。「これがありとあらゆる全体」と規定されたものは論理的にいつも非全体的である他ない。同じく、「外」はあり得ても、「これが外」と規定されたものはシステム相関物に過ぎない。
■その意味で、「システムの外」へのベタな接触の不可能性は、普遍的だ。だが、それが普遍的でも、まさに「問題」たり得るか否かはシステムのあり方に依存する。それが、「システムの外」を信奉可能な「近代過渡期」と、信奉不可能な「近代成熟期」の差異である。
■変わり易いものたちの、変わり方如何を評価する拠点となる、変わり得ないもの。入替え可能なものたちの、入替え可能ぶりを評価する拠点となる、入替え不能なもの。それらがあり得ないという意識が、敏感な人間に共有され始める時代に「風景映画」が登場した。
■共有され「始める」時代だからこそ、“「外」を信奉できた時代を引き摺った「外」への鮮烈な願望”と“願望実現の構造的不可能性への認識”が同時に存在でき、痛切なドラマを生んだ。近代過渡期から近代成熟期への端境期に当たる69年とはそういう時代だった。
■それから35年。“外への鮮烈な願望”と“不可能性の認識”の同居はもはやあり得ない。“認識”だけ残って“願望”は風化した。即ち我々は「問題」に既に適応した。かくして、「外の不在」故に評価の拠点を失った〈社会〉を、何故生きるかとの「疑問」だけが残った。
■「引きこもり」から「脱社会化」まで含めて、この「疑問」は先鋭化しつつある。まさにそうした意味論を体現した映画が、カンヌ映画祭で最優秀男優賞を受賞した。是枝裕和監督『誰も知らない』(03)だ。巷では事実上「作品」に与えられた賞だと噂されている。
■88年の西巣鴨子供4人置き去り事件が素材だと聞いた観客は、可愛相な子供たちへの同情と無責任な親への憤激を期待しよう。だが現実に描かれているのは束の間に現出した「子供たちのパラダイス」。年長者ほどかつてあり得た子供時代を想起して感慨に耽るだろう。
■この映画の凄さは、第一に、そのことで与えられる娯楽性の凄さであると同時に、第二に、そうであればあるほど刺激される深い反省的思考の凄さでもある。娯楽性と反省的思考の両立、あるいは感情的フックと寓話的メッセージ性の両立において、奇跡的な作品だ。
■どんな反省的思考か。映画に描かれた「子供の領分」は昔は当たり前に存在した。今は許されない。何故か。そこを掘り下げると「システムへの登録」が見えて来る。映画では戸籍と福祉システムに象徴されるが、現在の我々は大人も子供もシステム登録されている。
■即ち大人も子供も例外なくシステムの支援を得て生きるのが現代社会だ。我々はいつも意識せずにシステムの「下駄を履く」。映画は、システム登録による支援が断ち切られて初めて出現した、子供たちと感受性と能力だけを頼る「子供の領分」を、存分に描き出す。
■近代化が進むと、人の能力が解決してきた問題をシステムが解決してくれるようになる。例えば自ら天気を予測せずに天気予報を聴くようになる。むしろ人の能力は敏感すぎない方がいい。定型内に人が収まってくれた方が、システムによる処理可能性が高まるからだ。
■かくして昔なら許容されていた感覚の拡張がむしろ抑圧されるようになる。近代がドラッグを禁止するのもそのためだ。かくして人はシステムにとって都合のいい存在に縮小する。人がそれを受け入れたのはシステムが与える豊かさが魅力的だったからだ。今ではどうか。
■いったん豊かになれば今度は、近代化によって抑圧された感覚を取り戻したいと思う者が出てくる。システムへの適応によって失われたオルタナティブな感覚や思考を取り戻したい。サーフィンやニューエイジサイエンスや武士道がブームになる背景が、そこにある。
■だが豊かな近代社会だからこそサーフィンを楽しめる。ブームが象徴するのは「システムの外もまたシステム」のアイロニー。馬鹿なニューエイジ主義者の如き素朴な反近代は願い下げだ。しかし、この認識を徹底すればするほど、先に述べた「疑問」が先鋭化する。
■今日の社会システムはシステムの下駄を履かずに生きる余地を──古典的な生活世界の存在を──完全に消去した。だからこそ『誰も知らない』の子供たちは「子供の領分」成立の一年後、次女の死という悲劇的結末を迎える。我々はそういう〈社会〉を生きている。
■そういう〈社会〉を生きることに、どんな意味があるか。即ち「入替え不能な我々のために、入替え可能なシステムがある」というより「入替え不能なシステムのために、入替え可能な我々がある」と感じられる〈社会〉を生きなければならない理由が、あり得るか。


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