記事

80年代パターナリズム論の光と影のなかで――めんどうな自由、お仕着せの幸福(4) - 瀬戸山晃一×那須耕介

1/2

那須耕介さんがナッジやリバタリアン・パターナリズムをめぐって語り合う対話連載、今回は京都府立医科大学の瀬戸山晃一さんがご登場です。「三つ子の魂百まで」といいますが、「高校生の悩み、研究者まで」なのでしょうか。瀬戸山さんがじっくりと向きあってきた問いをお話しいただきました。(勁草書房編集部)

那須 瀬戸山さんは、研究者を志されたときからずっとパターナリズム研究を続けてこられて、かなり早い時期、日本ではおそらくいちばん早く論文でサンスティーンの行動経済学に言及し、取り上げられていました。2001年頃でしたか。

瀬戸山 はい。リバタリアン・パターナリズムという用語ができる前でした。

那須 サンスティーン自身が大々的に行動経済学と言い出したのは1997年頃からだったので、ほぼリアルタイムで紹介するとともに、当時から問題点も含めて指摘しておられました。まずはご自身の関心とからめて、リバタリアニズムないしリベラリズムの文脈でサンスティーンの議論をどう位置づけたらいいのかという話からうかがえますか。

「パターナリズム」を検索したら「行動経済学」がヒットした

瀬戸山 サンスティーンとの出会いは、1998年の夏から渡米していたウィスコンシン大学のロースクール留学中です。1年で修士号だけ取って帰る予定が物足りなくなって、博士課程にも進めるプログラムに入り直して、「遺伝情報のプライバシー」の問題を研究していました。

私の関心は一貫して、「パターナリズム」にあります。1983年にアレン・ブキャナンが「医療におけるパターナリズム」と題する論文で医師が癌を告知せずに患者に隠ぺいするなどの「強制的ではない、情報操作としてのパターナリズム」があるという議論をしたんですね。

遺伝診断が普及した現代では、「治療不可能な重篤な遺伝病を発症する場合は告知してほしくない」という人が一定数いる以上、「知らないでいる権利」も認めないといけないという議論もあって、パターナリズムと自律は必ずしも対立するものではありません。デレク・パーフィットの議論も、「将来の自己」のために「現在の自己」を制約するパターナリズムが正当化される場合もある。むしろ自律を補完し、人格的統合のために不可欠なものとしてパターナリズムをとらえるのが、クライニグで集大成された1980年代パターナリズム論の主流でした。現代の遺伝子情報開示の問題も私の中では、これらのパターナリズム論の延長線上にあったわけです。

留学中に、ウエストローというデータベースで「パターナリズム」を検索すると行動経済学の論文がいくつかひっかかってきた。「ビヘイビアル・ロー・アンド・エコノミクス(Behavioral Law and Economics)」とパターナリズムが一緒に出てきて「なんやろ」って読むと、サンスティーンとジョルスたちの1998年の論文でした。

那須 サンスティーンとジョルス、セイラーの3人で書いたものですね[Cass R. Sunstein, Christine Jolls & Richard H. Thaler, “A Behavioral Approach to Law and Economics,” 50 Stanford Law Review 1471 (1998)]。

瀬戸山 そのときはまだリバタリアン・パターナリズムという用語は使っていませんでした、たしか。行動経済学の知的洞察の具体的な含意のリストのなかに、「パターナリズムの再評価」も入っていたんですよ。

瀬戸山晃一氏

これまでの経済学の前提をいじる

瀬戸山 その論文のおもな関心は、伝統的な「法と経済学」を再構築しようという目論見にあった。伝統的な法と経済学はいわゆるホモ・エコノミクス、つまり合理的人間行動モデルを想定していて、パターナリズムの余地がないんですよね。

だけど行動経済学は、人間が本性的にもっているいろんなバイアスを実証的に暴き出して、認知心理学の洞察を経済学に取り入れる。実験をすると、たしかに人は従来の経済学が想定している合理人モデルではないような行動をする。たまたま不規則的、イレギュラーに逸脱するのではなくて、一定のパターンがあると法哲学会の年報で2003年に紹介しました。「なるほどなぁ」と思って。

那須 はい。

瀬戸山 いろんなバイアスがわかってきた。たとえば、原発事故があると過度にその危険性を見積もるけれど、ふだんのもっと危険な病気や肥満のリスクは低く見積もる「利用可能性ヒューリスティック(Availability Heuristics)」とか。90年代後半くらいにはこれを根拠に法規制や社会保障政策が提言されるようになってきたんです。

私は、行動経済学の斬新な知的洞察をつかってパターナリズムをリベラリズムのなかから捉え直したらどうか、と法哲学会の年報(瀬戸山晃一「自己決定の合理性と人間の選好Bhavioral Law & Economicsの知的洞察と法的パターナリズム」『法哲学年報2002 宗教と法聖と俗の比較法文化』(2003年))に発表しました。その頃は、リベラリズムのなかでパターナリズムがどれくらい正当化されるかに、私の問題意識があったんですね。

サンスティーンはもっともっと大胆で、リバタリアンともパターナリズムは両立するんだと、2003年の論文で主張してきました。でも、そこまでは関心がなかったんですよ。私、リバタリアンじゃなかったので。

那須 ふふふ。

瀬戸山 2004年に帰国して、できたばかりの「法と経済学会」で行動経済学の発表をしたのですが、やっぱり反発がありました。一言でいえば「学問としてどうか」みたいな感じでしたね。それはわかるんです。法と経済学が立脚している前提をいじるので、理論的な鋭さがにぶるわけですよ。そうこうするうちに日本に「行動経済学会」ができましたが。

那須耕介

医療政策、医学研究への関心

那須 リベラリズムの枠内でのパターナリズムの正当化、という理論的な問題に興味をもつ人は少なくないですが、瀬戸山さんの場合、最初からもっと具体的な制度や政策の設計にもご関心があったように思うのですが。

瀬戸山 患者さんの行動分析とか、医療政策にも行動経済学が使えます。サンスティーンも医療政策に言及しているように、実際の政治で使われてきている。

たとえば臓器移植のドナー(提供者)を増やすために、ドナーになる要件として明示的同意を求めるオプトイン方式から、推定的同意のオプトアウト方式に切り替える、とか。日本でも2009年の臓器移植改正法で部分的に取り入れているんですよね。「やだ」と意思表示をしないかぎりは、提供の意思があるとみなす推定同意のオプトアウト方式に。ただ、日本は家族の承諾が必要なので完全なオプトアウトではないけれど、臓器ネットの統計によると提供者が改正法導入後数年で7倍くらいに増えました。でも全体の臓器提供者は増えていないんですよ。心臓死からの提供が減ったので。

那須 むしろ、先に医療倫理や政策に関心があって、そこからパターナリズムの問題に進んだ、ということでしょうか?

瀬戸山 最初は批判的な問題意識からパターナリズム研究に入ったんですよ。個人的なことですが、子どものころ祖父が肺がんになったんですけど、当時は本人に末期がんを告知せず、本人以外の家族はみんな知ってることに対することに疑問を抱いたり。父親も急死し、「生とは何か」「死とは何か」を思春期に考えるようになりました。

高校もアルバイト禁止とかパーマ禁止とか校則がうるさくて、自己決定と自由の問題に関心をもったんです。パターナリズムという言葉は知らなかったんですけど、「あれやっちゃいけない。これやっちゃだめ」「なんで?」「あなたの将来のため。勉強しなさい。やればできるんだから」と。シンガーソングライターになりたくて、バンド活動とその費用のための新聞配達の日々のなかで、校則は俺の夢を追求する自由への制約として疑問に思う問題意識のめばえになりました。

那須 ふふっ。

瀬戸山 そこで「自由とは何か」「何のための規制なのか!」という問題意識ができて、法学部に進んで山田卓生先生の『私事と自己決定』(日本評論社、1987年)を読んだり、脳死や安楽死の問題をゼミで議論してレポート書いたりとかして、ますます医療の問題に関心をもって、「あ、パターナリズムなんだ。自分がこだわってきたものは」と気づいたんです。親の価値観や社会の価値観を「あなたのため」と押しつけているんじゃないか、とか。

でも、法学を勉強していくと気づくのですが、いろんなところにパターナリズムに基づく規制は組み込まれていますよね。本人の同意や承諾を違法性が阻却(免除)される抗弁(根拠)として認めないような嘱託殺人罪とか、法規制の根拠にもなっている。パターナリズムでないと説明できない規制が現代社会ではあふれかえっている。労働法や消費者保護法や社会保障法などは端的にそうですよね。そこで、どこまでのパターナリズムが認められて、どこからがダメなのか、自由制約の原理を批判的に考える法哲学における規範的な議論につながってくる。

那須 なるほど。

80年代パターナリズム論の転回

瀬戸山 批判的なところから研究に入ったんですけど、政策論にも関心があって論文を読んでいくと、「必要なパターナリズムはあるな」と思いはじめました。特に医療倫理学の分野などでは、パターナリズムと自己決定が対立するようにみんな捉えているけど、とくに80年代の英米のパターナリズム論は……。

那須 大きな転換があった。

瀬戸山 ええ。むしろ個人の自律を達成するためには一定のパターナリスティックな介入も必要だとか、自己決定と自律の区別とか、そういう議論が出てきて視野を広げられました。

それらの議論の延長上でどうするかというときに、人間像の捉え方が認知心理学やその洞察を取り入れた行動経済学ではちがうとわかり、バイアスを取り除くパターナリズムや、リベラリズムのなかから正当化できるパターナリズムはどこまでかとか、70年代の議論とは別な方向を探ってきました。医療現場ではケアなどパターナリスティックな配慮はすごくたくさんあるので、とくに医療との関係でのパターナリズムの捉えなおし、そして遺伝子情報の開示の問題が今後はより重要になると思ったんです。

那須 なるほど。ぼくは、サンスティーンらを通じてパターナリズムの問題に接近しようとして、守備範囲というか、パターナリズムの概念自体が広がっていたことに驚きました。

単なる「自己危害の防止」から「自己利益の増進」にまで射程を広げていくでしょう? 「そのままでもあなたの状態は特に悪くならないかもしれないが、こうすればもっと利益が得られますよ」と、誘導なり、強制なりを与えていく。

リベラリズムの枠内で本人の自己決定を尊重するという考え方は、もちろん捨てるわけにはいかない。でも、サンスティーンは「人間はそもそも自律的な存在ではありません。特定の人が例外的に自律性を失った状態に陥るのではなくて、むしろ四六時中、私たちはいろんなバイアスに引きずられてまちがいを犯す生きものだから、理屈上はあらゆる人があらゆる場合にパターナリスティックな干渉の対象になるんです」と言っているように思えたんですね。

なおかつ彼は、パターナリスティックな観点なしに制度設計は不可能だ、という。

瀬戸山 是非はともかくとして、パターナリズムは、すでに埋め込まれている。

歯止めを失ったパターナリズムと「ケア」

那須 是か非かの問題ではなくて、不可避なんだ、実はよいパターナリズムと悪いパターナリズムとを見分けて選ぶほかはないんだというような議論にして、一気に話を広げてしまった。その結果、歯止めをかけるのが難しくなっている。かつては「パターナリズム」の前には必ず「悪しき」がついて、「なるべく抑えておきましょう」というニュアンスがあったのが、80年代に「個人の自律のためにこそ介入が必要なんだ」という考え方が生まれて、このピンホールからダムが決壊を起こすようにして、パターナリズムの可能性がいっぺんに広がっていった。その最後の一撃をサンスティーンが加えたのかなと感じています。

瀬戸山 おっしゃるような捉え方もあるかと思います。あと、日本では、求められる「善きパターナリズム」論はケア論に吸収されて、そこで議論されているところもあったと思います。

那須 あー、なるほど。

瀬戸山 私は、ケアの行き過ぎはパターナリズムに他ならないと思っています。ケアという言葉はきれいで限度がないので、どこまでが必要なケアで、どこからが余計なお節介なのかを吟味するには、やっぱりパターナリズム論の視角が必要だと思うんですよね。

医療のリハビリもパターナリズムですよね。認知症にならないための高齢者対策も非常にパターナリスティック。パターナリズムの研究会では社会福祉が専門の方もいたので、アドボカシーの理論も議論されていました。80年代のパターナリズム論を法学や社会福祉の観点で研究してきているパターナリズム研究会でサンスティーンのリバタリアン・パターナリズムの議論や医療政策論などを少しずつ紹介してみたんです。そうすると、従来のパターナリズム論は、規制の主体である国家と規制客体である個人の関係や、医師と患者の関係などで論じられることが主であったので、リバタリアン・パターナリズム論は、個人の選択や行動に着目し、選択の自由の観点から制度を設計するといった議論にまでその射程を大きく拡大するので、「それはパターナリズム論に入れてほしくない」という反応もありました。

ブレーキはあるのか?

瀬戸山 一挙に議論の射程がひろがったんですよね。以前は「国家vs.個人」だった。国家がどこまで個人の自由に介入するかにフォーカスがあったけれど、サンスティーンは政府もまちがう可能性があるという。だからリバタリアン・パターナリズムなんですよね。どんな設計でもまちがいはあるから、離脱する自由を残しておくことによって政府のまちがいを是正するチャンスが組み込まれている、ということだと思うんです。

それと、大屋雄裕先生がやられているアーキテクチャですよね。初期状態(デフォルト)も含めてどういう制度設計が望ましいのかみたいな政策論に入ってくる。シートベルト着用の刑法的強制、という伝統的なパターナリズムではなくて、広い医療政策やいろんな日常に組み込まれているパターナリスティックな配慮まで議論が進んでいっちゃった。それに抵抗を感じる人たちももちろんいると思うんですよね。

那須 なるほど。

瀬戸山 ただ、伝統的なパターナリズム論に対するリバタリアン・パターナリズムが投げかけてくる知的なインプリケーションもあると思うんです。そのあたりは私も研究者としてやらないといけないところです。

那須 そこはぜひともお願いします。サンスティーンの議論には、ありとあらゆるものがパターナリズムに見えてしまうような視点を提供するところがあります。その洗礼を受けた後では、「国家vs.個人」の古典的自由主義の素朴な枠組みに頼らずに、制度設計全体の役割とか、デフォルト・ルール設定の意義を考えていかなければならない。そのとき、あらためて「パターナリズムにどこでどういうかたちでブレーキをかけるか、その根拠は何か」を見定めにくくなっているんじゃないでしょうか。

瀬戸山 ブレーキですか……。サンスティーン自身は、リバタリアン・パターナリズムのなかにブレーキが組み込まれているというんですよね。離脱できる余地があるし、ワンクリックで簡単に抜けられるように離脱のためのコストはかからないわけだから。理論的にはそこに仕掛けがある。リバタリアンはそれで説得できていると考えているかもしれないけど、実際には、離脱させられないことがあるんですよね。

たとえば、最近の私の仕事にかかわる研究への規制について取り上げると、近年の指針の改正や2018年春から施行された臨床研究法における規制の多くは被験者保護のための本人の同意の有効性や制約など、パターナリスティックな規制なんです。20以上、臨床研究の説明項目があって、それを被験者は全部理解して、同意しないといけない。

那須 去年、ぼくも手術だなんだで、たくさんの書類にサインしました(笑)。

瀬戸山 臨床研究だと通常の治療の場合よりもパターナリスティックな要件が強いんですよ。被験者保護のためにパターナリズムがいろんなところで組み込まれていて、被験者がいらないといってもダメなんです。厚労省の薬の認可もそうですよね。まだ日本では承認されていない薬だけど、アメリカでは承認されている。いちかばちかでやってみたいという人でも、いまの日本の制度だと保険診療ではアクセスできません。そこには患者を守るためのパターナリスティックな理由もかなりあるわけです。

そういう意味で、むしろリベラリズムはサンスティーン以上にもっとパターナリスティックになると思うんですよ。たとえばいまの日本の皆保険制度は離脱の自由(オプトアウト)を認めたら、制度自体が成り立たなくなりますよね。

那須 はい。

瀬戸山 一定の強制力があってはじめて制度として成り立つものは、サンスティーンの理論を取り入れると崩壊してしまう。それに、「離脱できる」といっても、たいてい、サンスティーンがいうようほど簡単には離脱できないように思います。

保険をやめるために、書類に多くを記入する手続きを求めるとか。そういうコストをあえてかけることで、本人が真剣に考えたか、チェックすることもありうる。そうやってもっと強いパターナリズムにいく可能性があります。サンスティーンのように必ずしもリバタリアン・パターナリズムに立脚しなくとも、サンスティーンがよりどころとする行動経済学のバイアスやそれに基づく人間行動に関する洞察の理論を利用してより強いパターナリズムに誘導することもできる。

那須 そうですね。

瀬戸山 ジャンクフードを好む米国人は、このままだと肥満で死にますよね、だからリバタリアンみたいに離脱可能性にこだわらないで、本人が離脱できないような強い規制をかけましょうという、ハード・パターナリズムを主張するサラ・コンリーの議論も2013年頃に出てきています。そういう議論にも行動経済学の洞察は使えるので、その怖さはあります。

あわせて読みたい

「行動経済学」の記事一覧へ

トピックス

ランキング

  1. 1

    GoToで客殺到 高級ホテル避けよ

    内藤忍

  2. 2

    小沢氏の「政権獲得」宣言に呆れ

    早川忠孝

  3. 3

    大量廃棄も…鰻の養殖技術進む

    ABEMA TIMES

  4. 4

    65歳はもはや「高齢者」ではない

    内藤忍

  5. 5

    貧困率15% 新興国水準に近い日本

    六辻彰二/MUTSUJI Shoji

  6. 6

    政権狙う? 連立動かぬ野党に疑問

    紙屋高雪

  7. 7

    植草&錦織が漏らしていた格差

    文春オンライン

  8. 8

    アルコール依存バンドマンの悲哀

    常見陽平

  9. 9

    「時代劇」半沢直樹を楽しむ方法

    大関暁夫

  10. 10

    エアロゾル警告を撤回「誤掲載」

    ロイター

ランキング一覧

ログイン

ログインするアカウントをお選びください。
以下のいずれかのアカウントでBLOGOSにログインすることができます。

コメントを書き込むには FacebookID、TwitterID のいずれかで認証を行う必要があります。

※livedoorIDでログインした場合、ご利用できるのはフォロー機能、マイページ機能、支持するボタンのみとなります。