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スト2とサカモトとダウンタウンと TKブームとは何だったのか

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「愛しさと せつなさと 心強さと」200万枚の大ヒット

5月25日、trfの6枚目のシングル「survival dAnce 〜no no cry more〜」が発売され、初めてシングル初登場1位を獲得。それまでのシングル5枚とは一転し、ここから「5作品連続ミリオンヒット」を達成する。6月22日、trfの7枚目のシングル「BOY MEETS GIRL」が発売され、こちらも大ヒット。

仕上げは7月21日発売、「恋しさと せつなさと 心強さと」。オリコン初登場は28位だったが、徐々に順位を上げ、9月26日付けのチャートで1位を獲得。最終的に200万枚以上を売り上げた。歌唱は東京パフォーマンスドールですでに小室楽曲を歌っていた篠原涼子。そして、この曲のアーティスト名義は「篠原涼子with t.komuro」。trfの2作連続の大ヒットを「大晦日の盛り上がり」とするならば、「with t.komuro」がついた「恋しさと せつなさと 心強さと」の発売日が「TKブームの元日」だ。

ここに1冊の雑誌がある。94年7月5日発売の音楽雑誌「CDでーた」創刊100号記念特大号。


タイミングとしてはTMNのプロジェクト終了から1か月半、「BOY MEETS GIRL」の発売直後、「恋しさと せつなさと 心強さと」の発売前。表紙を飾っているのは「リンドバーグ」で、目次に「小室哲哉」の文字はないが、「HEAD LINE NEWS」に矢沢永吉、久宝留理子に続いてtrfが載っている。


そしてこの号には、創刊100号記念特別編集「CDでーたCOMPLETE FILE BOOK 100+30」という付録がついている。この付録には1988年の創刊号から99号にいたるまでの表紙が飾られ、表紙登場回数ランキング、巻頭特集ランキングなどのデータ、さらに88年から94年に至るまでの音楽業界の動きが年表で掲載されている。また、興味深い対談も載っていた。その名も「’88→’94 音楽シーン座談会」。

当時の最先端にいる音楽業界の関係者の発言が実に興味深く、いかに「94年の小室哲哉に風が吹いたか」というのがわかりやすいものになっている。この付録のデータと対談からいくつか引用したい。

タイアップとカラオケが生んだミリオンセラー連発の時代

まず、「1990年」のデータページには「テレビとのタイアップ全盛時代に突入」、「91年」には「ドラマタイアップ全盛時代突入」、「92年」には「ミリオンセラーが続出!!」「(シングル・アルバムあわせて)25作のミリオンセラー。史上最高記録を打ち立てた’91年の13作品を軽くクリアしてしまった」とある。実経済ではバブルが崩壊した91年から92年の間に、「CDバブル」と「タイアップブーム」が起きていた。この現象について、「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」を手掛けたフジテレビの小畑芳和プロデューサーは次のようなことを語っている。

・各家庭がハードの変化でCDプレーヤーを買った
・買ったら聴かなきゃいけないが、出会う機会がなかった
・その時にテレビで音楽の情報を見せられ、購買に結びついた

また、この座談会では、

・ミリオンヒットはカラオケの影響が大きい
・大沢誉志幸は日清のカップラーメン、渡辺美里はTBSのドラマ主題歌というように、メジャー展開のきっかけはタイアップがほとんどだが、その時代はカラオケが普及していなかったので歌うという作業までいかず、ミリオンセラーにいかなかったと思う

という発言がそれぞれのメンバーから出ている。日本で最初にCDが発売されたのは1982年10月1日。大瀧詠一の『A LONG VACATION』、ビリー・ジョエル『ニューヨーク52番街』などが第1号だ。

CDがレコードのシェア率を追い抜いたのは87年、カセットのシェア率を抜いたのは91年のことだ。「さあ、CDプレーヤーが我が家に来たぞ」「何を聴こう!」と思った時、誰の何を買うのか…テレビをつけても「ザ・ベストテン」は放送されていない(89年9月終了)。「夜のヒットスタジオ」も終わってしまった(90年10月)。今でこそ配信サイトやサブスクの購入履歴、聴取履歴などから「あなたにおすすめの音楽」などが提示され「気持ちのいいところに手が届く」ようになったが、30年前はそうはいかなかった。

「欲しい音楽のヒントを誰か教えてくれ!」と思った91年、フジテレビのドラマから流れてきたのが「ラブ・ストーリーは突然に」「SAY YES」、「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」から流れてきたのが「愛は勝つ」だった。この3曲は91年の年間シングルチャートトップ3だ。

翌92年も同じ流れは続き、1位の「君がいるだけで/愛してる」、2位の「悲しみは雪のように」はフジテレビのドラマ、4位の「それが大事」も「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」から、そして6位の「ガラガラヘビがやってくる」もまたフジテレビのバラエティ番組「とんねるずのみなさんのおかげです」からヒットした曲だ。

このように「音楽番組を頼りにせずとも曲をヒットさせるには、タイアップだ!」という方程式が完成していく。93年は原盤制作兼音楽出版社「ビーイング」のアーティストが、年間チャートトップ20の過半数を占めた。92年末発売ながら10位に入った中山美穂&WANDSの「世界中の誰よりきっと」などドラマタイアップは相変わらず強かったが、ポカリスエットのCMソング、ZARD「揺れる想い」やNTTドコモ「ポケットベル」のCMソング、DEEN「このまま君だけを奪い去りたい」など、CMタイアップ曲もそれぞれ9位、12位に入った。

さらにこの年の終わり、アニメ「スラムダンク」のオープニングテーマのBAAD「君が好きだと叫びたい」、エンディングテーマの大黒摩季「あなただけ見つめてる」で、アニメとのタイアップも成功させる。「テレビで音楽を流せる場所があったら、そこを埋めろ!」とばかりにビーイング勢の音楽が世にあふれ出た。そして、「買うCDを選びたい」と思っていた人たちが、その音楽になだれ込んだ。

CDを買ってから人々はどうしたか。歌った。どこで? カラオケボックスで。一般社団法人 全国カラオケ事業者協会のホームページによると「1988年の段階でカラオケボックスブームは本格化し、翌年にはその個室性が問題になった」とある。ドラマタイアップブームが本格化した1991年に「ビデオCDカラオケ」、92年には「通信カラオケ」が開発された。通信カラオケによって、新曲の配信は1か月から2日に短縮。新曲を買い、即歌いに行く文化は92年に作られたと言える。

93年には、文部省(当時)の『教育白書』に「我が国でもっとも盛んな文化活動はカラオケである」と記されるほど「カラオケ」には存在感があった。そして、カラオケの参加人口のピーク「5,890万人」を記録したのは、TK元年の1994年だ。

タイアップブームとカラオケブームで迎えた1994年。trfの「survival dAnce 〜no no cry more〜」はフジテレビ系ドラマ「17才-at seventeen-」の主題歌、「BOY MEETS GIRL」はコカ・コーラのCMソングとなり、見事にタイアップ効果で上昇気流にのった。「恋しさと せつなさと 心強さと」は、時間はかかったもののこの2曲よりもさらに売れて、200万枚を突破した。その理由はどこにあるのか。

まずひとつは「カラオケ戦略」だ。カラオケを歌っている時、なんとなくその曲の雰囲気に合った映像がバックで流れる。あれはあれで味わい深いものだが、たまに曲のイメージと合わないこともある。しかし、この曲をカラオケで歌うと、篠原涼子本人の映像が流れた。流すように指示したのはもちろん小室哲哉。「カラオケボックスで友人が歌っていたことをきっかけに、アーティストと曲を知る」というのは古今東西のあるあるだが、当時「歌っている本人の映像」というこれ以上ない情報を得ることができたのは、貴重だった。テレビに出ずとも、タイアップをとらずとも、「カラオケで歌う人」が宣伝を担ったのである。

そして、タイアップ。この曲は、94年8月に公開されたアニメ映画『ストリートファイターII MOVIE』の挿入歌で、この映画の原作はアーケードゲーム『スーパーストリートファイターIIX』だった。

ゴダイゴがアニメ映画「銀河鉄道999」の主題歌、挿入歌を歌ったのは1979年。その後も「キャッツ♥アイ」の杏里、「シティーハンター」のエピック・ソニー、CBSソニー制作楽曲のヒット、さらに前述の「ビーイングとスラムダンク」のように、アーティストがアニメソングを歌うことは一般化しつつあった。

しかし、「ゲーム原作のアニメ映画」というのは当時珍しいものだった。「ドラゴンクエスト」を原作としたアニメのエンディングテーマとして、徳永英明「夢を信じて」がヒットしたことはあったが、「アーケードゲーム」さらに「格闘ゲーム」が原作の「アニメ映画」という組み合わせは、それまでにないものだった。

アーケードゲームで「スト2」が登場したのは91年。最初にハマった中学生男子は高校生に、その頃の小学生男子は中学生になり、「CDの購買層」に入った。「せっかくプレーヤーを買ったのだから何か買いたい大人」「何か曲を覚えて人前で歌いたい大人や高校生」「自分のお小遣いでCDを買ってみたい中学生」。これらの広い層に小室楽曲はジャストフィットした。

ここまでは小室の計算のうちだったかもしれない。しかし、「恋しさと せつなさと 心強さと」と「強力な他力」により、「95年のTKブーム」が起きる。鍵を握る男が3人。「浜田雅功・松本人志・坂本龍一」である。

HEY!HEY!HEY! から吹いたさらなる追い風

BLOGOS編集部

94年の10月17日、音楽番組「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」がはじまった。司会はダウンタウン。「ダウンタウンにいじられることで名前と曲が世に知られる」という、90年代に入ってからなかった「音楽番組からのヒット」を生み出せる場所ができた。この頃のダウンタウンはすでに「お笑い」の範疇から飛び出した存在となっており、92年には「24時間テレビ15 愛は地球を救う」のパーソナリティをつとめ、93年には「話題の人」として「ニュースステーション」にゲスト出演した。その際、久米宏から「ずっと来てほしかったんだけど二人が忙しすぎて」と言われている。

同じく93年には日本テレビで「ダウンタウンDX」「発明将軍ダウンタウン」がはじまり、漫才やコント、企画で笑わせる番組以外も担当するようになった。「音楽番組の司会」という一見不釣り合いな仕事がまわってきたのも自然な流れだ。

1994年10月31日放送、「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」第3回に出演したのは4組。「ジャンジャンバリバリ」のフレーズが印象的なパチンコソングがヒットした「ブギーマン」。7月、8月と2か月連続でシングルをリリースした久宝留理子。そして篠原涼子with t.komuro。さらに、1時間の放送の中で手厚く特集される「MUSIC CHAMP」として登場したのがtrfだ。ちなみにtrfと立ち話の中で、松本・浜田は「自分たちはダンスの番組をやっていたことがある」「DANCE DANCE DANCEって言うんですけども」と話している。

その場のノリのギャグのようにも聞こえるが、これは事実。その話題の直後、CMに入ってしまったが「それゆえtrfのメンバーを知っていた」という話をしたと思われる。松本人志の「遺書」がベストセラーになったのが1994年。「週刊朝日」という、自身のファン層、さらに「ダンス」とはけっして被らない場所での連載だった。ダウンタウンはこの時すでに「どこで何をやってもOK!」な存在になっていた。

番組には音楽パートとトークパートがあり、小室は2組のトークパートに出演した。つまり、小室は番組のほぼ半分に出演していたことになる。この回は「1994年10月時点のMUSIC CHAMPは“小室哲哉”である」と知らしめた回だ。

当時、「ダウンタウンのごっつええ感じ」のレギュラーメンバーだった篠原涼子を、「普段はアホの涼子(なのに今や大スター、というニュアンスで)」「涼子、今のアメリカの大統領誰だっけ?」「ミリオンセラーって何ですか?と言ってた」などといじる松本・浜田。発売から約3か月経ち、一躍大スターとなった篠原を戸惑いながらいじる中で、「(こんな涼子が売れるんだからというニュアンスで)俺たちも小室さんに曲を書いてもらったら…」という話になる。

すると小室は「僕は頼まれると断れないタイプ」と話し出す。「これはフリだな」とばかりに「小室さん、ミリオンお願いします!」と頭を下げる浜田。小室は「頼まれると断れないタイプだから、頼まないでくださいねって(言おうと思った)」と返していたが、その後の展開を思うと計算のうちだったのでは、とすら思える。頭を下げる浜田に向かって松本は「うちらは坂本龍一ファミリーやないか」と指摘する。

ちなみにこの回で「小室ファミリー」という言葉は出ていない。H Jungle with t、globe、華原朋美のデビューは翌95年。松本がなにげなく発した「ファミリー」という言葉選びは、時代の先を行っていたことがわかる。また、この松本の発言に対し浜田は「あのオッサンはなんやゆうとニューヨークに帰るやんか」と返し、再び小室に頭を下げた。この放送からおよそ5か月後、200万枚を超えるヒット曲をリリースするとは、誰も思っていなかった。

ダウンタウンは坂本龍一ファミリー。これは、坂本龍一プロデュースで「GEISHA GIRLS」としてCDデビューしたことから出た発言で、事実である。デビュー曲のタイトルは「Grandma Is Still Alive」。オリコン最高15位。発売日は1994年7月21日で、奇しくも「恋しさと せつなさと 心強さと」と同じだ。また、1か月後の8月21日には、全国的に大ヒットしたEAST END×YURIの「DA.YO.NE」が発売されている。「Grandma Is Still Alive」もまたラップの曲なのだが、「DA.YO.NE」よりも早い発売というところが、芸人のリリースするCDの中では先進的だった。(小沢健二×スチャダラパーの「今夜はブギー・バック」は1994年3月に発売されている)

BLOGOS編集部

なぜ坂本龍一がダウンタウンをプロデュースしたのか。きっかけは坂本が「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」を観覧したこと。その後、フリートークで「ちょっと前に世界のサカモトが来とったな」「世界のサカモトに曲を書かすんですよ」「全米デビューですよ。名前はゲイシャガール」と松本が語り、スタッフが坂本に伝えたところ、快諾。のちに坂本はダウンタウンと漫才を披露し、「ダウンタウンのごっつええ感じ」ではコントに参加。この流れだけを見ると「ダウンタウンの大ファンだった坂本が、オファーを引き受けた」ように感じるが、実際はそうではなかった。

幻冬舎から発売された「THE GEISHA GIRLS SHOW 炎のおっさんアワー」という本の中で、オファーを引き受ける前のダウンタウンの印象についてこう語っている。「女性のマネージャーが彼らの大ファンで、ビデオを見てるのをいつも横目でちらちら見ていた」「なんて下品なやつらだと思ってた」「マネージャーの強いリクエストで公開録画を観に行った」。

GEISHA GIRLSについて、巷間で「もともとダウンタウンフリークだった坂本がオファーにこたえ」と伝えられているが、この本によるとそうではないようだ。坂本が番組を観覧したのは93年12月12日放送分。二人のトークに爆笑する坂本が映し出されている。収録が終わり、楽屋へ挨拶に行く坂本。その時の様子も本に書かれている。「気楽なつもりで挨拶に行ったら、二人ともびっくりしたみたいで、まったく喋らなかった」「重苦しい空気が流れ、車の用意ができるまで“沈黙の五分間”があった」。出会いは「最悪」だったと語る坂本。

しかし1か月半後、ニューヨークで自身のソロアルバムを制作している時に「ダウンタウンが番組の中で、坂本龍一にプロデュースを頼んでラップをやりたいと言っている」という電話を受ける。「あの時ほとんど何も喋らなかったのに」と困惑しつつ、坂本はそのオファーを引き受けた。

GEISHA GIRLSが誕生しなければ「小室哲哉にプロデュースしてもらう」「自分たちは坂本龍一ファミリー」という発想と、一連の流れは生まれなかったのではないか。そう考えると、GEISHA GIRLS誕生のきっかけとなった「坂本龍一の女性マネージャー」は、「H Jungle with t」さらに「小室ファミリー・TKプロデュースブーム」への「大河の一滴」だった。

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