記事

「En Rich」のロングインタビュー

1/2

沖縄で出ている『En Rich』という雑誌からロングインタビューを受けた。
沖縄以外ではなかなか手に取る機会のないメディアなので、ブログに採録する。
「いつもの話」で、かつ長いので、お暇なときにどうぞ。

―大津市のいじめ自殺事件に関するブログで、「いじめというのは、教育の失敗ではなく、むしろ成果だ」と語られていたのが印象的でした。

今回の事件で、学校や教育委員会が情報を隠蔽した理由は、「バレたら叱られる」からです。だから、とにかく目の前の問題解決を先送りしようとする。
ミスがあれば、お互いに責任をなすりつけあって、責任を押しつけられたものが周りからの集中攻撃を浴びる。学校教育そのものがその「いじめの構造」を再生産している。
だから、他者からの攻撃を恐れて身を縮める。嵐が過ぎるのを首をすくめて堪え忍ぶという生き方が日本社会に行き渡っている。「何もしない」というのがもっとも合理的な選択だと思われている。

今の日本では、失敗があった場合に、「なぜこんな失敗が起きたのか、システムのどこに瑕疵があったのか、管理運営のどこに手落ちがあったのか」を問うということをしません。反撃できない弱い個人や集団に罪を押しつけて、そこに攻撃を集中し、彼らを排除することで「穢れを祓う」ということを社会問題のほとんど唯一の解決法としている。日本全体が「いじめ社会」になってるんです。

際だった弱者に「穢れ」を押しつけて、それを排除することで集団の統合を達成するという「スケープゴート」の仕組みというのは、人類と同じくらいに古いものです。
倫理的には許しがたいものですが、現に集団統合の仕掛けとしては有効だった。だから、現代まで生き延びたわけです。
でも、今の日本に蔓延している「いじめ」はもう「スケープゴート」というシステムとは違います。際だった徴がなくても、誰でも攻撃の対象に選ばれる。昨日までいじめる側にいた人間がいきなりいじめられる。結果的に集団の全員が絶えず排除の対象になるリスクに怯えることになる。それが集団の力をどれほど損なっているか、誰も真剣に考えていません。

破局的な事態が起きたときに、対処の仕方には二通りのものがあります。
一つには真相追求、有責者の特定。「誰のせいだ」という問題のとらえ方。
でも、もう一つ伝統的な方法があります。
それは「物語る」ということです。
何か忌まわしい事件があったとき、そのときほんとうは何が起きたのかを当事者自身の口から語らせること。「供養」するというのは、このことです。

―原発事故の後にも「供養」という言葉お使いでしたね。原発を叩いたり忌避したりするのとは全く異なる違う眼差しで、「そういうのもアリなのか」と静かな感銘を受けました。

能楽には、加害者・被害者の両方から物語っていく手法があります。ちょうどこの辺りの芦屋が舞台となった「鵺」という演目があるのですが、怪物を弓で射殺した源頼政と、射殺された怪物の両方をシテが前後で演じ分ける。
一つの忌わしい事件を対立する二つの立場からそれぞれ主観的に語らせるのです。それによって事件は立体的に再構成され、そのときはじめて怨みを残して死んだ鵺の霊は鎮められる。
起きてしまったことはもう取り返しが付きません。でも、物語を語ることを通じて、失敗事例を学び、死者を弔うことができる。

今のメディアがやってるのは、どう考えてみても供養ではありません。誰かを血祭りに上げて、血の匂いで酔いしれて、不安を忘れようとしている。

今度の大津の事件も、刑法上の犯罪になれば法律に基づいて審判が下るのでしょうけれど、個別的なケースはそれで一件落着しても、同じ事件を二度と起こさないという遂行的な意味ではどうしても供養が必要なんです。
でも、出来事の全貌を物語り、それによって死者を鎮め、生き残ったものを慰撫するという志が今のメディアにはありません。そんなのは自分たちの仕事ではないと思っている。

―今のお話で思い出したのが、沖縄タイムスのロングインタビューで語られていた「二度と負けない姿勢」という表現です。「二度と戦争はしません」という紋切り型の姿勢でなく、「二度と負けない」「同じ過ちをおかさない」というメンタリティーをみんなが持つようになるにはどうすればいいでしょうか?

さっき、遂行的という言い方をしましたが、遂行的というのは未来を作り出すことなんです。過去を振り返って「誰が悪い、誰のせいだ」といっても、それで未来が作り出せるわけではない。
僕が「二度と戦争に負けない」という言葉を選んだのは、「もう二度と戦争はしません」があまりに後ろ向きの言葉だからです。「じゃあ、何をするんだ」と問われたら、「だから何もしません」としか答えようがない。
「二度と戦争に負けない」ためにはどうするのか。これはきわめて具体的だし、個別的なことです。考えなければいけないことが無数にある。それを私たちが国民的課題として受け入れたときにはじめて、「日米安保条約はほんとうに有効なのか?」という話になってくる。

―はじめに安保ありきで、ある種の思考停止を起こした上での個別の議論になってしまうから、分析の方向が逆になるという…。

若い政治家と話していても安全保障や国防の話になると、ほんとうにスケールが小さい。データや数字は知っているんだけれど、すべて「だから現状維持しかないんです」という結論に収まってしまう。話を聞いているうちにだんだん酸欠になってくる。
安全保障の問題こそ知性の活動を最大化して論ずるべき主題なのに、「日米同盟基軸以外の安全保障はありえない」という前提から話が始まり、それが結論になる。話がぐるぐる循環しているだけなんです。
まず大きな国家目標をはっきり掲げて「だいたいあっちの方向」に向う。同時に、そちらに向かうためにはいろいろな手段があるわけで、それはそのつど吟味する。飛行機で行ってもいいし、新幹線に乗ってもいいし、船でも自動車でもいい。まっすぐ行ってもいいし、迂回した方が早い場合もある。使える手段については洩らさず吟味する。大筋の剛胆さと、細部の精密さが同居していないと国家は成り立たないんです。

武道でも繊細さと剛胆さは同時に要請されます。刀で斬る場合なら、鋭利なメスで切り裂くような精度の高い斬りと、巨大なマサカリを振り上げて、畳も根太も叩き斬る豪放な斬りの二つを同時に行うことが求められる。そんなこと言われても、こちらはどうしていいかわからない。でも、不思議なもので、脳で身体を統御することを諦めると、思いがけない力が発揮される。方程式では解けない問題を身体が解いてしまう。
今の日本は、国の方針をまっすぐに示す骨太な物語もないし、どういう国相手にどんな外交カードを切って国益を増すかを冷徹に考える技術もない。日米同盟基軸という単純な物語の中にすべてを流し込んで、複雑な現実と全知全能をあげて切り結ぶという仕事を放棄している。国民を統合できる大きな物語もないし、指南力の強いメッセージもないし、システムの問題点を一つずつ、部品を交換するように補正してゆこうという忍耐づよい努力もない。

—かつては、そういう政治家もいたような気がしますが。

70年代くらいまではいましたね。
戦争の前後で、一身に二世を生きるという、自分自身、本質的な分裂を経験した人たちがいた。敗戦国民であることの屈辱を骨身にしみて味わった。そういう人たちはギリギリに追いつめられると、直感に導かれて最適選択をするということを繰り返してきたのだと思います。そういうときの判断基準はできあいの政治理論や政策ではなくて、結局は人間なんです。目の前にいるのが、器の大きい人間か、信義に篤い人間か、そういうことで腹を決めていたのだと思います。
かつての自民党なんか、左から右までまるでイデオロギーの違う人たちが同居していたけれど、最終的には「人間的に信用できるかどうか」だけの結びつきでしょう。そういう旧制高校的なエートス(習性・気風)でかつては政党が統合されていた。
今の政党の統合軸は利害得失とイデオロギーだけです。

今、日本の国家意思の決定は誰がどういう基準で行っているのかがさっぱり見えない。何年か前には「消費税絶対反対」と言っていたはずの総理大臣が「消費増税に政治生命をかける」と宣言している。政策が変わるのはいいんです。誰でも間違いはあるんだから。でも、前に「間違った政策判断」をしたのは、どういうデータを見落としていて、どういう推論上の誤りを犯したからであるについて彼には開示義務があると思う。「私はかつても正しく、今も正しい」では困る。

—変節はありかと思いますが、変わった基準がわからないというのは違和感があります。

間違いを認めると、責任追及がうるさいからです。でも、「私は一度も間違ったことがない」とでたらめでも言い続けているとメディアは飽きて追求を止めてしまう。ほんとにすぐ止めてしまう。次の標的が出てきたら、そちらに攻撃が向かうから。だから、政治家もビジネスマンも、みんな嘘をつき、詭弁を弄しても、自分の非を認めないで時間稼ぎをするようになってきた。何ヶ月か意地でも「私は間違っていない」と言い続けていれば、ほんとうにそれで通ってしまうんです。

—何年か前に「前言撤回できるのが大人の器量だ」という主旨のブログを拝読した記憶がありますが、前言撤回できないから責任逃れが起こるんですね。本当は「ごめんなさい」と言いたい人というのは、大人にも子供にもいるんじゃないかと思うのですが、それができないように外堀を埋められてるような…。

そうですね。「すいません」「俺が責任取ります」って言うのを、ほんとにみんな嫌がりますね。僕はすぐ言いますけど(笑)。
「責任は俺が取る」って。だって、その方がどう考えても仕事が円滑に進むから。「俺は責任取らないよ。失敗したらお前の責任だぞ」って突き放すと、言われた方は怯えて手元が狂ってしまう。逆に、「失敗しても構わないから好きにやりなさい。後のことは引き受けた」と言ってあげれば、リラックスできるから仕事の精度が上がる。「俺が責任をとる」と言えば言うほど責任を取らなければならないような事態が起きる確率は減るんです。
だから、「責任取る」って言葉を人々が忌避する理由が僕にはわからない。たぶんよい仕事を仕上げることより、人から責められない立場であることの方が優先順位が高いんでしょう。

でも、考えればわかるけれど、責任なんて、結局誰にも取れないんです。失敗して、何かが致命的に失われた場合、時間が過去に戻らない以上、起きてしまったことは取り消せない。
だから、責任というのは本来予防的な概念なんです。事が起こった後に「誰が悪いのか」を言い立てるためにではなく、悪いことが何も起こらないようにするために、「何か起こった場合は自分が罪を被る」と宣言しておく。その誓言によって、起きたかもしれない災禍を未然に防ぐ。こういうのを遂行的っていうんです。

―何かとても日本的な祈りの作法に叶ってるような気がします。

祝福みたいなものですから。「俺が責任とる」「いや、俺が取るよ」「いや俺だよ」「俺だよ」なんて(笑)。責任というのは、お互いに押し付けあうんじゃなくて、取り合うものなんです。そういう集団においては、誰かが責任をとらなければならない問題そのものが起きないんです。

―実力のある人がリーダーであるというよりも、その言葉を口にできる人が、ということですね。原発の問題にしても、その言葉を口にできる人は誰もいないように見えます。

一人もいませんね。
大飯再稼働の際の首相の声明からしてあまりに出来の悪い詭弁でした。重大な文はほとんど主語がない。「安全性が確認された」とかいうような受動態の文が多用されていて、「誰が」確認したのか、「誰が」決定したのかということは、巧妙に言い落としてある。卑怯ですよ。一国の総理大臣なんだから、「もしものことがあったら私が腹を切る」くらいのことは言ってほしかった。
今度事故が起きたら総理大臣が自決するかもしれないという場合と、何が起きてもこの人は責任逃れを言うだろうという場合では、事故が起きる確率に有意な差が出る。ほんとうに原発の安全性を高めようと思ったら、「私がすべての責任を負う」と言うべきだったんです
。でも、彼がほんとうに恐怖していたのは電力不足と電力高騰で産業界から突き上げを食うことだった。原発の安全性は二の次だったんです。

あわせて読みたい

「いじめ」の記事一覧へ

トピックス

  1. 一覧を見る

ランキング

  1. 1

    BLOGOSサービス終了のお知らせ

    BLOGOS編集部

    03月31日 16:00

  2. 2

    なぜ日本からは韓国の姿が理解しにくいのか 識者が語る日韓関係の行方

    島村優

    03月31日 15:41

  3. 3

    「いまの正義」だけが語られるネット社会とウェブ言論の未来

    御田寺圭

    03月31日 10:09

  4. 4

    カーオーディオの文化史 〜ドライブミュージックを支えた、技術の結晶たち〜

    速水健朗

    03月30日 16:30

  5. 5

    BLOGOS執筆を通じて垣間見たリーマンショック後10年の企業経営

    大関暁夫

    03月31日 08:27

ログイン

ログインするアカウントをお選びください。
以下のいずれかのアカウントでBLOGOSにログインすることができます。

コメントを書き込むには FacebookID、TwitterID のいずれかで認証を行う必要があります。

※livedoorIDでログインした場合、ご利用できるのはフォロー機能、マイページ機能、支持するボタンのみとなります。