- 2020年08月07日 15:05
8月の記憶
今年も8月になった。この国にとって、8月はやはり特別な季節なのだと思う。明治から続いていた「大日本帝国」が、いまの「日本国」になったのは、事実上、この月が境目になるからだ。当時、私は12歳の国民学校6年生だった。1945年(昭和20年)8月15日に何があったかは、今でもよく覚えている。
自宅の正午のラジオで、天皇陛下の声というのを初めて聞いた。事前の重々しい雰囲気とは違って、一瞬「女みたい」と思ったほど高くて細い声だった。
何を言っているのかは、あまりよくは分からなかったが、戦争の経過を説明した上で、「かの共同宣言を受諾する旨、回答せしめたり」というところで、降伏して戦争をやめる知らせであることがわかった。
ポツダム宣言は数日前から報道されていて、そのおよその内容と、「日本政府はこれを黙殺する」といった記事が、新聞にも出ていたからだった。
このときの私は、東京滝野川(今は北区の一部)の本校に通っていた。ただし友達はみんな疎開でいなくなっていたから、私は本校では、ただ一人の6年生だった。校舎は陸軍(通信隊)の兵営になっていて、校舎として使われていたのは、二つの教室だけになっていた。
私自身も、間もなく縁故疎開に出ることになっていた。
この日、何よりも強く感じたのは、「これで家が焼かれなくて済んだな」という安心感だった。高台の一隅に残された「焼け残り地区」は、周辺の低地が一面の焼け野原になった中で、奇跡的に消失を免れていたのだった。
空襲の当日が曇天で、B29も精密な照準ができなかった結果に違いなかった。
戦争が負けて終るのが口惜しいという気持ちは、ほとんどなかったような気がする。とにかく、身に迫ってくる空襲がなくなるということが、すべてだった。
私が唯一、涙を流したのは、翌日の新聞で父が広島の「新型爆弾」の記事を読みながら「悪いものを作りやがって」とつぶやいたときだった。
その時点で唯一の不安は、アメリカ軍に降伏し、占領されたらどうなるか、ということだった。私たちに判断できる材料は何もなかった。なにしろ「鬼畜米英」としか知らされていなかったのだから。通信隊の古兵は、「ひどいことになりますよ」と言っていた。自分たちが大陸でやったことを覚えていたからだろう。
しかし、そんなことはどうでも良かった。「もう空襲は来ない」ということがすべてだった。そしてそれ以来、この75年間東京には空襲がない。